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不比等が生まれる前の話② -氏姓制度と豪族たちの主導権争い-

前回書いた通り、5世紀後半から6世紀前半にかけて、大王を中心とした畿内の勢力、いわゆるヤマト政権が、葛城氏や吉備氏、磐井氏など各地の豪族を制していく時代となりました。そして6世紀後半は、このヤマト政権内で特に力をつけてきた豪族同士の主導権争いが進みます。

氏姓制度について

ヤマト朝廷における各豪族は、氏姓制度により役割が明確に分けられていたとされています。「氏」とは今の名字のようなもの。「姓」とは役職のようなものです。
 
「氏」は、一応男系つまり父親側の血縁をもとにした集団とされています。結婚したとしても変わらず名乗ることになっていたようです。ただ、この頃は双系(男系も女系も引き継ぐことができる)だったとも言われていて、ここらへんは新しい資料や時代の価値観などによって、今後変動する可能性もある部分だと思われます。とりあえずこの「氏」が豪族の構成員を結びつけるものではあります。
 
「姓」は役職のようなものと言いましたが、これはヤマト朝廷のトップである大王から、有力な豪族に与えられます。臣(オミ)、連(ムラジ)、君(キミ)、造(ミヤツコ)、国造(クニノミヤツコ)、直(アタヒ)、首(オビト)などがあります。
 
例えば前回出てきた磐井氏は、筑紫国造磐井もしくは筑紫君磐井と言われています。「筑紫」は現在の福岡県あたりのこと、「磐井」は氏、そして「国造」「君」は姓、つまり役職です。この姓が、古事記や風土記では「君」、日本書紀では「国造」と書かれているため、表記が揺れるのですが、日本史の教科書は基本的に日本書紀を正としているため、多くの教科書では「筑紫国造磐井」と表記されています。
 
姓は世襲です。例えば物部氏は、軍事の役割を担う存在で、姓は「連」です。そのため物部氏に生まれ物部氏として育つということは、原則軍人になっていくということを意味します。
 
姓の中でも、特に「連」と「臣」の2つは、有力な豪族に与えられていました。「連」は早くからヤマト朝廷に参画し(もしくは服属し)、軍事や祭祀など特別な職能を担っていたとされています。多くは、神別という神様を祖先とする氏族とされていて、例えば大伴氏は天忍日命という、天孫降臨の際に瓊瓊杵尊(ニニギノミコト。太陽神・天照大神の孫で、初代天皇・神武天皇の祖父ともされる)と共にやって来た神様の祖先とされています。
 
一方で「臣」は、ヤマト朝廷近く、奈良盆地周辺の豪族が多く、また臣の中でも特に有力な豪族は、最初の大臣(オオオミ。後述)で5代の天皇に仕えた伝説の忠臣・武内宿禰の子孫とされています。
 
連も臣も、その中でさらに有力な氏には「大連」「大臣」という姓が与えられます。そして、こうした大連や大臣をめぐって、勢力争いが行われていきます。大臣は葛城氏や平群氏、巨勢氏などを経て、最終的には蘇我氏が力をつけます。一方の大連は、物部氏と大伴氏が歴任していましたが、途中から大伴氏が没落し、物部氏が独占していきます。
 
こうして6世紀後半には、大臣・蘇我氏と大連・物部氏がヤマト政権内での影響力を強く持ち、両者の間には強いライバル関係が芽生えていたようです。

権威と権力の分割が既に始まっている?

6世紀から7世紀中盤に起こった大化の改新までは、大王よりもその家臣である豪族の方が、明らかに重要な施策を担っているように見えます。
 
例えば、先ほど紹介した大伴氏の没落ですが、これは512年の「任那4県割譲事件」がきっかけとされています。高句麗に国土を奪われた百済に頼まれて、時の大連である大伴金村がヤマト朝廷の直轄地である任那(加耶の一部?)の西半分を百済に渡した事件です。

任那(加耶)は前回話した通り、ヤマト朝廷にとっては最新技術の取得など、政権運用上重要な場所です。それを大王ではない立場の人間が他国に譲渡したのですが、その行為自体は越権行為として咎められるなどはされていないようで、金村は事件後も長く政権の中枢にいます。金村が失脚したのは540年ごろ。任那の残りの地域を新羅に奪われたことで、「そもそも百済に割譲して弱体化していなければ」などと物部氏らに糾弾されて、その責を負って隠居します。
 
磐井の乱では、その大伴金村と物部麁鹿火が将軍として事態を鎮圧しました。
 
日本書紀で552年と記載されている仏教公伝。日本史の授業では長らく、仏教公伝により百済経由で届いた新しい価値観である仏像や仏典をめぐり、積極的に受け入れようとする蘇我氏と日本伝統の信仰を重視して受け入れに消極的だった物部氏の対立が決定的になったとされていますが、どうもこの552年の出来事自体が、後の聖徳太子という英雄を仕立て上げるための伏線とされる研究があるなど、本当にあったことか極めて疑わしいとされています。
 
ただその真偽はさておき、この仏教公伝をめぐる内容は興味深いです。百済から仏像がもたらされたとき、欽明天皇は大喜びしたようですが、物部氏が反対したことで仏教の受容はそこから30年も棚上げされます。大王が賛成したことを、家臣であるはずの大連の反対により実行に移せていないという構図が、政権の正史である日本書紀に記述されているのです。
 
このように、国政を決めるような重要な意思決定において、少なくとも日本書紀などの資料上では、大王家はほとんど存在感を示せていないようです。日本の歴史はよく「権威」と「権力」が切り分けられていると言われます。天皇は権威を担い、その天皇の権威によって承認されたものが権力を握るという構図です。平安期の藤原氏、鎌倉・室町・江戸の各幕府、大日本帝国などはその構図で表現されていますが、この6世紀のヤマト政権においても、もしかしたら権力と権威の二重構造だったのかもしれませんね。

蘇我氏勝利! だが、直後に届くビッグニュース

さて蘇我氏と物部氏の対立は、587年に用明天皇が即位後2年で崩御したことで起こった後継者争いで、決着がつきます。物部氏が推すのは穴穂部皇子。彼の母親は蘇我馬子の姉もしくは妹ですが、先々代の敏達天皇崩御の際に蘇我氏が推す用明天皇が即位したことを機に、対抗勢力の物部氏と手を結んでいます。対する蘇我氏は、敏達天皇の后である炊屋姫(後の推古天皇)から詔を得て、その穴穂部皇子を誅殺。さらに物部守屋の館に攻め込みます。超速攻の奇襲作戦です。
 
しかし物部氏は、前回書いた通り、鍛冶に関する先進技術を持つ渡来人集団を抱えていたもしくは技術を受け継いでいたこともあってか、世襲的に軍事の領域を任されていました。要は、当時最強の軍人集団です。だからこその奇襲だったのかもしれませんが、それでも蘇我氏の攻撃は何度も物部氏に跳ね返されます。しかし最終的には物部守屋を射落とすことに成功し、蘇我氏は勝利することができました。
 
これによりヤマト朝廷における蘇我氏の立場が決定的となり、蘇我馬子は崇峻天皇を擁立。以降は蘇我氏が伝統的につながりの深い百済とのネットワークを中心とした国家運営が行われます。蘇我氏が建立した日本初の本格的な寺院である飛鳥寺は、百済の技術や仏教文化が強く反映されたものとなっていて、さらに593年の木塔の心柱を立てる儀式では、馬子を含む100人以上が百済服を着用して臨んだとされています。
 
しかし、物部守屋を倒してから数年で、大陸からビッグニュースが届けられます。 

  • 中国で、統一国家・隋が誕生!

これにより、東アジアの国際情勢は大きく変化していくことになります。

次回

どうする蘇我氏 隋爆誕という未曾有の事態に、どう向き合う?

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