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不比等が生きた時代④ -法律官僚から大政治家へ-

大宝律令の完成以降、朝廷内での影響力を高めていく藤原不比等。実務能力に加えて政治力も駆使しながら、持統天皇(上皇)の崩御後も奈良時代初期の政権に君臨し続けます。

藤原流の政治の始まり

大宝律令完成の頃から、藤原不比等は出世街道を爆進していきます。
 
まず重要なトピックとしては大宝律令完成前(持統上皇生存中)の697年、自らの娘である宮子が、即位したばかりの文武天皇に嫁ぎます。記録上では、文武天皇は皇后となりうる皇族系の女性と婚姻関係を結ぶことはなく、事実上この宮子が文武天皇の第一夫人の立場となったようです。またこの頃不比等は、県犬養橘三千代という女性と結婚しておりますが、彼女は文武天皇の母である阿閇皇女(後の元明天皇)に仕えていたとされていて、宮子・文武天皇の婚姻にはこの信頼関係があったとも言われています。
 
701年は、不比等にとって大きな1年になります。大宝律令の完成に加えて、この年、彼は大納言という地位に昇進します。位は正三位、政権の中枢メンバーです。
 
また、文武天皇に嫁いだ宮子が、男子を出産します。この子は首皇子となり、後に聖武天皇となります。さらに不比等本人にも、県犬養橘三千代との間に娘が生まれます。彼女は後に光明子となり、聖武天皇の未来の皇后になります。後に平安時代の藤原氏が朝廷の中枢に君臨するために駆使した最大の戦略「外戚関係の構築」は、これが初めての事例でした。
 
また文武天皇関係以外にも、二女・長娥子は長屋王に嫁ぎ、長男・武智麻呂の妻に阿倍氏の女性を迎え入れるなど、不比等の親族は様々な有力貴族と婚姻関係を結びます。

天武以来の重臣の死で、立場がより強く

702年に持統上皇が崩御し、本格的な文武天皇の治世が始まります。とはいえ、彼はまだ若いため、補佐として刑部親王が知太政官事という官職に就きます。不比等にとっては上司となりますが、刑部親王は705年に亡くなります。
 
また、不比等より位が上の左大臣・多治比嶋は701年、右大臣・阿倍御主人も703年に亡くなります。こうした天武天皇の頃からの古参メンバーが亡くなった一方で、不比等は704年に位が一つ上がり従二位となります(大納言は変わらず)。

元明天皇即位と平城京遷都が、不比等を事実上の政権トップに

707年、文武天皇が25歳の若さで崩御します。藤原宮子との間に生まれた首皇子はまだ子どものため、つなぎとして文武天皇の母・元明天皇が即位します。息子から母への皇位継承ということでやや強引なようにも見えますが、一方で彼女は持統上皇崩御後の文武天皇の事実上の後見だったという説もあり、ここらへんの正統性の是非は正直よく分かりません。
 
元明天皇の治世では、大宝律令の運用フェーズに入っており、法律に長ける不比等の実務能力が強く求められていたようです。そのため、立場としては石上麻呂という重臣が上の役職(右大臣)にいたものの、政務の最高責任者は不比等へと移行していったとされています。
 
この707年には、前回書いた通り、平城京への遷都の計画が始動します。710年に遷都が実行されますが、不比等の朝廷内での立場における重要なトピックとして、この石上麻呂が旧都・藤原京の留守を任されます。
 
そのため、平城京にいる皇族以外の人物では、藤原不比等が最も高い地位となりました。これにより、実務レベルでも官位レベルでも、事実上彼が最高の政治家となります。ちなみに708年に、不比等は正二位へとさらに一つ位を上げ、右大臣に昇進しています(右大臣だった石上麻呂も左大臣に昇進)。これ以上の地位(従一位、正一位)は、当時は授与された人物がいないため、皇族以外の人物としては最高の地位まで上り詰めたことになります。 

次回

人臣として最高の地位まで上り詰めた不比等。
その残りの10年間の人生について


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