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娯楽が多すぎて逆に損をしている気がする

最近、スマホの『MIZ』というゲームを遊んでいます。

現在のRPGの祖とも言われる『ウィザードリィ(WIZ)』をオマージュした、ダンジョン探索RPG。


ウィザードリィは自分でキャラクターを作り、方眼紙にマップを書きながら難易度の高いバトルとアイテム集めを楽しむ、というゲームで、今のゲームからしたらそりゃあ不親切もいいところ。

最近だと世界樹の迷宮がそれに近いものはあるかな。

でもウィザードリィとは世界樹ともやっぱり違って、チュートリアルなんてないし、ゲーム内で地図を見ることもできないし、魔法も名前から効果がわかりにくい上に説明もない。
とはいえ僕もウィザードリィ自体はそんなに遊んだことがないんだけど、プレイしたとき「なんだこの不親切なゲームは」なんて思った記憶があります。

ちなみにMIZの前作として『NIZ』というゲームもスマホで無料でできます。
NIZのほうがより初期のウィザードリィ感が強いので、興味があればぜひプレイしてみてください。


そんな不親切な元祖ウィザードリィだけど、昔のゲームプレイヤーたちはこぞってウィザードリィをプレイし、この上ないくらいに楽しんでいた様子が伺えます。

なぜなのか。

考えてみたところ、昔は娯楽がそれしかなかったからなんじゃないかな。
それしかなかったは流石に言い過ぎだけど、少なくとも当時はウィザードリィ以上のゲームなんてほとんどなかったんだろうなと。

「足るを知る」じゃないけど、それ以上を知らない、望みすらしていなかったからこそ、当時のプレイヤーたちはウィザードリィをそれこそしゃぶり尽くすまで楽しめたんじゃないでしょうか。


ところが今はどうかというと。
スマホという最強に便利なアイテムをほとんどの人が持っており、四六時中誰かと繋がれるし、面白い動画もたくさん観れるし、ゲームも無料でいくらでも遊べる。
これですら15〜20年前からしたら信じられないことで、娯楽が競合しあっている状態。

娯楽が競合するとどうなるのか。
「もっと面白い娯楽はないのか」と、さらに上の娯楽を求めるようになる。
本当は十分に楽しめることであっても他と比べるようになってしまうし、その比較に負けてしまった娯楽には「クソ」というレッテルが貼られてしまう。

それらを生み出してくれた人たちへの感謝なんて、微塵も感じない人も少なからずいるんじゃないかと思ってしまう。

娯楽って本当は楽しいもので、その娯楽が多いということは幸せなことのはずなのに、なんだか逆に娯楽に飲まれて損をしているんじゃないか、とまで感じてしまう。


他意はないことを先に断った上で、たとえば国や人種、環境など様々な要因からゲームで遊んだこともほとんどないような子どもたちにウィザードリィを渡せば、それはそれは目を輝かせて遊ぶんじゃないかな、とか。

そうなったとき、ウィザードリィを全力で楽しめる子どもたちと、スマホの無料ゲームをプレイして、あのゲームはクソゲーだとかバグが多いとか運営がどうとか言ってる人たちと、どっちが幸せなんだろう、とか。

そんなことをふと考えることがあります。


これからもどんどん娯楽は増えていくだろうし、それに伴って娯楽に求められるクオリティもどんどん上がっていくんだろうと思います。

それ自体はすごくいいことだし、一人のゲーム好きとしてもゲームが盛り上がると嬉しいし、これからもたくさんのゲームで遊びたいのは変わりないです。

でもそんな裏側で、足るを知るという気持ち、それらの娯楽を生み出してくれている人たちへの感謝の気持ちを忘れず、娯楽の渦に飲まれないように楽しんでいけたらいいな、なんて、漠然とながら考えますね。


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