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スノードロップの涙

愛する夫が他の女に目移りした。
あんな、穢らわしい女のどこが良いと言うの?どうして、私よりあの女の事を優先するの?愛してるって言ってくれたじゃない。私のことが世界で一番好きって言ってくれたじゃない。あれは嘘だったの?悔しい。憎い。悍ましい。どうしたら彼の気持ちを取り戻せるの…

夫は今日も女の所に行ったようだ。
「なんで真っ直ぐ帰ってきてくれないの!私じゃダメなの!?」
「そんなんじゃないよ。あの子には俺が必要なんだ。」
淡々と言う夫にカッとなる。
「嘘つき!嘘つき嘘つき嘘つき!私のことが一番好きって言ったじゃない!」
「希の事も好きだよ。」
夫は私を抱きしめる。その胸を拳で叩いた。
「嘘よ!あなたはあの女のことばかり!私なんて居なくなれば良いと思ってるんでしょ!」
「そんな事思ってない。希が居るから頑張れるんだ。でも、あの子は体が弱くてずっと入院してる。少しでも側に居てあげたいんだ。分かってくれ。」
涙が止まらない。怒りが収まらない。なんて勝手な人なんだろう。でも結局、私はこの人を許してしまうのだ。

優と言う名前の通り、優しい彼が大好きだった。最低だった両親から逃げ出して、アルバイトを転々としていた時に出会った。彼は、親身になって話を聞いてくれた。私を大事にしてくれて愛してくれた。
「希を幸せにすると約束する。だから、俺と結婚して欲しい。」
彼からそう言われた時は、嬉しくて涙が溢れた。家族を持つなんて夢のようで、最初は信じられなかった。でも、彼は約束通り私を幸せにしてくれた。大好きな彼と過ごす日々は、幸福以外の何物でもなかった。
彼の両親も良い人だった。実親と上手く行かなかったから、上手くやれるか心配だったけど、彼の両親は本当の娘のように私を受け入れてくれた。
それなのに、六年前あの女が現れてから全て狂った。
私が体調を崩して入院してた頃だった。急に現れたあの女に、彼は入れ込んだ。私が入院してる間はもちろん、退院してからもあの女のもとに通い続けた。何度も辞めて欲しいと訴えた。義両親にも相談した。でも決まって言うのだ。
「あの子は体が弱いから仕方ない」

私も体が弱ければ振り向いてくれるの?私だってボロボロなのに。毎日彼のために家事をしてるのは私なのに。苦手な炊事も頑張って、少しでも帰りたくなるように部屋を飾って、毎日彼を待っているのに。我慢して我慢して我慢して我慢して我慢して、いつになったら私を見てくれるの。
いつになったら私だけを愛してくれるの。

「希、しばらく実家に帰ろうと思うんだ。」
ある日、彼は帰宅するなりそう言った。
病院の臭いを纏って、可愛らしいぬいぐるみの入った紙袋を持って、私以外の女を想って。
「わ、私は?」
「希には家に居てほしいんだ。実家だと気を使うだろうし、希もその方が良いだろう。」嫌…。嫌、嫌、いや、いや、いや、イヤ、イヤッ!!!!
「捨てないで!優くん、私を捨てないで!置いて行かないで!!」
彼の腕を掴んで懇願する。
「もっと頑張るから、もっと我慢するから、優くんの邪魔にならないようにするから、だから捨てないで!」
「そんなんじゃないよ!捨てるなんてそんな…」
彼は膝をついて私を抱きしめる。
「希はよくやってくれているよ。よく頑張ってる。いつもありがとう。」
「じゃ…なんで……」
「少し休んだほうが良いと思うんだ。いつも家事ばかりで休めてないだろう。俺が居たら家事しなきゃいけなくなっちゃうし、少し休んでてくれよ。」
私のため?
ああ、優くんは私のことを考えてくれてる。私はまだ愛されてる。彼が帰るまでに、もっと料理上手くなって、部屋も華やかにして、もっともっと彼に尽くそう。
「分かった。早く帰ってきてね。」
「うん。ありがとう希。」
頭を撫でてくれる彼の手が、嬉しくてたまらなかった。

彼が実家に行って一週間。
彼は二日に一回は様子を見に来てくれた。足りない物はないか、欲しい物はないか、不便はないか、私をよく気にかけてくれた。彼が居ない家は寂しくて、苦しかった。でも、彼に愛されてると思ったから耐えられた。
今日は彼が来る日。彼が大好きな料理を作ろう。部屋も綺麗に飾ろう。いつも、買い物は彼と二人で行ってたけど、今日はこっそり準備してびっくりさせよう。
彼の喜ぶ顔を思い浮かべて、外に出た。
早春の冷たい風が頬を撫でる。小さな野花がポツポツと咲いていた。
そういえば、花見とかしばらくしてないな。今年は彼と行こうかな。お弁当を作って、桜の下で彼と笑い合いたい。
スーパーで買い物をしたあと、ふと出口近くの花が目に止まった。可愛らしいスノードロップが束ねられている。机の上に飾ろうかしら。晴れやかな気持ちで、花束と袋を持って帰路についた。
彼が来るまでたっぷり時間がある。きっと彼はすごく喜んでくれる。それで、私の所に帰ってきてくれるわ。病弱で何もできない女より私のほうがずっと良いもの。
義実家近くの角を曲がったとき、私は見てしまった。
彼があの女と手を繋いで歩いている。
私がしばらく見ていない、幸せそうな笑顔を浮かべて、義実家に入っていく。
ドサッと荷物が落ちた。
なんで。なんで?なんで、なんで、なんでっ!
なんでよ!
ぐしゃぐしゃと頭をかきむしる。
なんであんな女の方がいいの!何がだめなの!何がいけないの!
ハッと気づいた。
あの女がいけないのよ。彼も義両親も、あいつに騙されてるんだ。あの女さえ居なければ、みんな元に戻るはず。
あの女さえ居なくなれば…。

花束を持って、義実家に入る。家の裏手に回り込むと、庭にあの女が居た。
「こんにちは。」
微笑みを浮かべて話しかけると、女はニッコリ笑う。
「こんにちは!」
今すぐズタズタに引き裂いてやりたい。でも、焦っちゃいけない。確実にやらなきゃ。
「ねえ、これきれいでしょ。」
花束を見せると、女は目を輝かせて近寄ってきた。
「すごくきれい!なんていうお花?」
「スノードロップって言うのよ。あなたにあげる。」
「ありがとう!」
女は疑うこと無く、花束に手を伸ばした。無邪気な手の間を花束が落ちていく。女の首を両手で締めた。
死ね死ね死ね死ね死ね死ね!!お前さえ居なければ私は幸せになれるのよ!!!
「ユキ!」
彼が私を突き飛ばす。女を抱えて、私を見下ろす。凍てつくように冷たい、嫌悪の眼差し。
「優くん…どうしてそんな目で見るの?どうしてそいつを庇うの?私が終わりにするから、呪いを解くから、私と暮らそう?」
必死に手を伸ばす。私の手を取るよね。今まですまなかったと謝ってくれるよね。また二人で幸せに暮らせるよね。そうじゃなきゃおかしいもん。
でも彼は私の手を取らなかった。
困惑した顔で、苦痛を感じているように、化け物を見るように、女を抱いて下がった。
絶望が広がる。
どうして?なんで?こんなはずじゃない。こんなの許せない!嫌だ!嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ!!!なんでみんな私をいじめるの!?なんで私ばっかり酷い目に遭うの!優くんを返してよっ!私の幸せを返してよ!!!
私の切実な願いは、誰にも聞いてもらえなかった。


僕の評価はいつも、普通の人だった。普通に生まれて、普通に育って、普通に勉強して、普通に遊んで、普通に大人になった。普通に仕事をしようと思って、地元の会社に普通に就職した。それが幸せな事だと言う人もいるし、なんてつまらない人生だと言う人もいる。僕は特に何も思わなかった。人並みに不満を持ったり、喜びを感じることはあったけど、だからといって抜け出したいとか、もっと成功したいとも思わなかった。
希と出会うまでは。

昼休みに、なんとなく入ったレストランで彼女を見た。その瞬間、世界が色鮮やかに輝いた気がした。
花の妖精のように可憐で美しい彼女に、どうしても振り返ってほしくて毎日通い詰めた。少しずつ彼女と近づいて、そのうち店の外でも会うようになった。
希という名前を知った時、それよりふさわしい名前は無いと思った。
希が笑うと、世界も笑うようだった。
希が泣くと、世界も泣いていると思った。
燃えるような恋心は、やがて包み込むような愛に変わっていった。
希を幸せにするのは、僕でないといけないと思った。
希が受け入れてくれた時、僕はこの世で一番幸福な人間だと思った。
普通の日々は、鮮やかに彩られていった。
彼女が欲しがったものは、なんでも用意した。嫌がることはしなかった。両親と不仲だから会いたくないという意を汲んで、顔合わせはしなかったし、結婚式もしなかった。それでも良かった。希が幸せなら僕も幸せだった。

そうして何年か過ぎた頃、僕らの元に小さな命がやってきた。会社で知らせを聞いて、慌てて飛び出した日を忘れることはないだろう。
二人で大事に大事に育てた。華奢な希が心配で、いつも気が気じゃなかった。仕事に家事に病院と忙しかったが、全く苦では無かった。
少しずつ大きくなっていくお腹を撫でて、たくさん話をした。健やかに大きな不自由なく生きてほしい。僕らの願いはいつも一緒だった。

半年を過ぎた頃、希が倒れたと連絡があった。
切迫早産。
希はベッドから動くことを禁止された。
「赤ちゃん死んじゃったらどうしよう、ごめんね優くん、ごめんなさい…。」
すすり泣く希を抱きしめることしかできなかった。
幸せな日々は一変して、苦しい日々が続いた。なんとか仕事をして、毎日病院に行って、面会時間が終わっても中々帰れなくて、独りの家でエコー写真を見ては「無事でありますように」と祈り続けた。
希は少しずつ暗い言葉を言うようになった。
「私なんかが幸せを欲しがったから。」「赤ちゃんがかわいそう。」「優くんも私なんかじゃなければ、こんな事にならなかったのに。」「ごめんね。」「ごめんなさい。」
繰り返される言葉が苦しかった。「そんな事無い。」と言う事しかできない、無力な自分が憎かった。
そんな状態が二ヶ月続いた頃、突然容態が悪化した。緊急手術。どこで何をしていたか全く覚えていない。気がついたら、手術室の前で、希と赤ちゃんの無事を願っていた。僕はどうなってもいいから、二人を助けて下さいと、普段考えもしない神様に懇願していた。
どれほど時間が経っただろうか。
手術室から、医者が出てきた。
「上手くいきましたよ。赤ちゃん少し小さいので、集中治療室で見させてもらいますね。奥さんももう少ししたら目が覚めますよ。」
全身の力が抜けた。医者の腕を掴んで、泣きながら感謝した。
「おめでとうございます。」
医者の言葉に、子供のように泣きじゃくりながら笑った。

青白い顔をした希の手を握る。
よく頑張った。ありがとう。本当にありがとう。
そっと頭を撫でながら、何度も何度も繰り返した。
「ゆ…くん……」
ぼんやりとした顔で、希が呟く。
「希、よく頑張ったね。もう大丈夫だからね。」
希は不思議そうな顔をした。
「何が…あったの?」
僕は少し戸惑った。
「赤ちゃん無事に生まれたよ。希も、もう大丈夫だからね。元気になったら一緒に会いに行こうね。」
希は怪訝な顔をする。
「赤ちゃん…?なんのこと?」
岩で頭を殴られたような気がした。

希は妊娠していたことを忘れていた。
医者は「一時的なものだろう」と言ったが、希は日に日に混乱し、不安がり、情緒不安定になっていった。
僕も戸惑いを隠せなかった。あれほど喜んだのに、あれほど愛していたのに…。
何度説明しても、赤ちゃんを見に行っても、希は認めなかった。それどころか、新生児集中治療室に行く僕にすがりついて「行かないで」と泣き叫んだ。
きっと大丈夫。きっと良くなる。
そう思わないと苦しかった。

赤ちゃんには、優希と名付けた。二人の宝もの、大事な子。両親に付き添われた役場の窓口で、僕の手は震えていた。

希の身体が回復して退院した。
「まだ無理しないで、ゆっくり休んでね。」
ソファに座った希は、不安そうに部屋を見回した。
「ねえ、私達ずっと一緒に居られるよね?」
「もちろん、当たり前だよ。」
背中をさすると、少し安心した表情を見せた。
食事を済ませ、希の薬を用意する。
強い不安と不眠、衝動的な行動を和らげるための薬。産婦人科医に紹介された精神科で出されている薬。それを見るたびに、僕はやるせなさを感じていた。
「赤ちゃんにおっぱいあげる時に使うんだって!」
満面の笑みで見せてくれた授乳クッションは、部屋の隅に転がっている。
ぶんぶんと頭を振った。きっと良くなる。大丈夫。今は希が元気になることを考えないと。
「希、薬飲もうか。」
希は慣れた動作で薬を飲み込んだ。

優希は未熟児で、しばらく入院が必要だった。また、心臓に疾患があるようで手術の必要もあった。
両親の助けを借りながら、仕事と家事をこなし、優希に会いに行き、希の看病をした。
優希はとても可愛らしい女の子だ。美人な希に似て、目がパッチリしていてまつげが長い。病院で優希に会っている時が、一番安らぎだったかもしれない。
僕の指を握る小さな手、一生懸命ミルクを飲む口、可愛らしいゲップも泣き声も、全てが愛おしい。

優希は中々病院から出られなかった。
心臓の手術を繰り返し、色んな感染症と闘った。小さな身体で一生懸命闘う優希に、僕は付き添うことしかできなかった。僕が代われたらと、思わない日は無かった。
それでも、時々実家に外泊し、院内でも沢山の人に見守られて、大きくなっていった。よく笑って、何にでも興味を示して、色々なことを学んでいく。天使のような声で「パパ」と呼ばれるのは、この上ない喜びだ。
そんな優希の成長とは裏腹に、希は悪化と好転を繰り返し、全体的に悪くなっていった。
玄関を開けると「優くん!」と飛びついてくる。もうすっかり子供のようだ。それでも今はまだ落ち着いていて、少し前は自殺未遂を繰り返して目を離せなかった。
「ただいま。今日はどうだった?」
抱きつく希を撫でながら、部屋に入る。
壁全体に貼った模造紙には、クレヨンや絵の具で悍ましい絵が描かれ、床には引き裂かれたぬいぐるみや綿や破れた紙が散乱している。机には小麦粉を練ったようなものがこびりついていた。
「きれいでしょ!優くんに喜んでほしくてがんばったんだよ!」
希が無邪気に部屋で一回転して見せる。
焦げ臭い臭いが鼻をついた。
キッチンには食べ物が散乱し、かつての面影はないほど汚れている。火にかけられた鍋には、炭化した何かが入っていた。
「今日はシチューだよ!」
にこにこと笑う。
「ありがとう。嬉しいよ。」
そう答えながら、取り敢えず火を止めて換気扇を回す。
もうずっとこんな感じだ。最初は、壁紙を張り替えたり掃除したり、希に言い聞かせたりしていたが、機嫌が悪くなって暴れたり自殺をほのめかしたりするので、すっかり諦めてしまった。夜、奇妙な絵の中で寝たくなくて、希が新しい飾りつけをできるように、という名目で模造紙を貼っているが大して効果はない。
精神科にも通わなくなってしまった。
希が笑顔ならそれで良いと思っていた。

いつからか、希は優希を僕の浮気相手だと思うようになった。
どうすることもできなかった。いや、どうしようともしなかったのかもしれない。
優希が六歳になった頃、退院に向けた長期外泊が決まった。
もちろん家には近づけられないので、実家で過ごさせることにした。両親には申し訳ないと思っている。希の容態が悪化してから、何度か離婚を勧められたが僕はいつも曖昧な返事をしていた。いつか良くなると信じていたかった。
優希と過ごすために、実家へ帰ることを言うと、希はひどく取り乱した。めちゃくちゃな言い訳をしたと思う。納得してくれて良かったと思いながら、実家に帰った。
優希と両親と過ごす時間は、とても楽しかった。肩の荷が下りたような気がした。
出来合いじゃないご飯、何気ない会話、絶えない笑い声に心が癒やされた。
それでも、希の事は頭から離れなかった。頻繁に連絡が来たし、様子も見に行った。なんとか三人で暮らせないか考えていた。
優希が病院に帰る日、テレビで見たおもちゃが欲しいという優希とに出かけた。残念ながら目当てのおもちゃが無く、病院に行く前に別のおもちゃ屋に車で行こうと話した。
「ユキ、パパとジイジとバアバとお出かけするの好き!」
無邪気に笑う優希が愛おしい。
早めに出るために、荷物の準備をしていた。ほんの一瞬だった。妙な音がして、優希を見に行くと、希が優希の首を絞めていた。
反射的に希を突き飛ばす。
咳き込み、泣きじゃくる優希を抱えて、距離を取る。
母が、尋常じゃない希の様子を見て、どこかに電話しだした。父は、竹箒を持って僕たちの前に立つ。
なんでここにいるんだ?今殺そうとしたのか?僕達の大事な優希を?
頭が混乱する。
僕の中で何かが、音を立てて崩れる。
悍ましい悲鳴が、目の前の女性を、怪物へと変えていった。

逃げていたのかもしれない。病院に閉じ込めているような後ろめたさや、過去の希の姿に縋って、約束したからという言い訳で、本当の幸せを考えなかったのかもしれない。僕が我慢すれば、希も笑顔で居られる。いつか良くなって、三人で暮らせる。幸せな日々が返ってくるはず。
逃げて、逃げて、逃げて、逃げて、僕は大事なものを見失ったんだ。

後の事はあまり覚えていない。
優希に大きな怪我はなかったこと。
トラウマの治療のために退院は取り消しになったこと。
希の両親に初めて会ったこと。
希の話とは違ってまともな人で、謝り倒してくれたこと。
離婚したこと。
両親と共に引っ越したこと。
ふわふわと浮いている感覚の中で、すべてが進んでいった。今は遠い地で、優希と両親と暮らしている。幸せの中に、希のことがしこりのように残っている。あの時どうすればよかったのか、正直僕には分からない。無理やり病院に連れて行くべきだったのか、早く離婚するべきだったのか、諦めるべきだったのか…果たして当時の僕に、それができたのだろうか。
僕は間違いなく希を愛していた。希のわがままを、小さな疑問を、妙な矛盾を、全て見逃してしまうほどに。
今はただ、優希が幸せであることが希望だ。

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