見出し画像

安楽死。

 「安楽死」という言葉は、どこかで聞いたことがあったような気がするけれど、自分で噛み砕き、よくよく考えた事が無い言葉でしたが、とあるドキュメンタリーの動画を観た事をきっかけに調べて考えてみました。

 その動画を拝見聴した結果、率直に感想を言えば心に「衝撃」を受け、普段意識していなかった"死"というものを強く意識させていただくには十ニ分な内容でした。

 ドキュメンタリーの内容について少し触れさせていただくと、40代夫婦に子どもが2人。子どもは高校生と小学生という家族形態であり、一見すると幸せそうな家族に見る事が出来ます。
 しかし、夫婦の内、ご夫人は癌が全身転移しており、あらゆる事を尽くしたにも関わらず、寛解はおろか有効的な治療をする方法すらない状況でした。
その様な中、考えに考えた末に、ご夫人は投薬などの影響により性格が変わってしまう前に、スイスに行って安楽死を望む様になります。
 ※スイスは海外からの人に対しても、安楽死の措置をする事が可能な国の一つと言われています。

 ご夫婦での話し合い、子どもたちを含めた家族での話し合い、それは対面でも行われますし、LINEなどテキストでも行われていました。
 子ども達は、納得はしていない様子であるものの母親に対して理解を示すようになっていきます。

 そして、家族の理解のもと、気丈に振る舞う子どもたちと空港で別れ、ご夫婦でスイスに飛行機で向かって行きます。。
 ※内容については、言語化が下手なためここまでにします。もしご視聴が出来る方は観ていただけたらと思います。

 安楽死を取り扱ったドキュメンタリー動画は、生まれてはじめて人が自死する瞬間を目の当たりにし、当事者の立場でない事の想像限界を感じつつも、人が死を自己決定する権利とそれを納得はしないけども理解をしている家族の姿を、自分を通して考えてみました。

 それは、死と隣り合わせにあるかの様に喩えられる「生きる」とはどういう事なのか、生きている自分は「生きているという意識があるのか」など、とても考えさせられるものでした。

 そもそも、よく聞かれる「安楽死」という言葉にも使い方や定義を混同している自分に気が付きましたので、自分なりに調べてみました。

 はじめに、安楽死の司法上での取り扱いとして、過去の日本の裁判例では

①患者が絶えがたい肉体的苦痛に苦しんでいること
②患者は死が避けられず、その死期が迫っていること
③患者の肉体的苦痛を除去・緩和するために方法を尽くし、他に代替する手段がないこと
④生命の短縮を承諾する患者の明示の意思表示があること

この4条件に当てはまる事が必要とされいます。

 そして、安楽死には「積極的安楽死」と言われるものと「消去的安楽死」に大きく区分されるようです。

 積極的安楽死とは4条件に当てはまる方に対して、医師が医療行為として本人の投薬による自殺幇助をする事です。
 そして、消極的安楽死とは、自然死であることや延命治療しない方法であり、いわゆる「尊厳死」として、よくメディアなどでも取り上げられる事が多いかと思います。

 この定義によれば、日本では積極的安楽死は法的には認められておらず、消極的安楽死が近年は一つの方法として社会的に受け入れられている状況です。

 将来の日本において法的や社会的に「積極的安楽死」を導入した方が良いのか、導入しない方が良いのかと多少の議論がなされていますが、自分の考えや想いを少しまとめてみようと思います。

 先ず、選択権の観点から。

 積極的安楽死や消極的安楽死などの選択肢が多い事は、その人がどの様にしたいかという行動の選択権行使が可能となります。
 日本において選択権が行使出来ないとなれば、選択が出来る海外へ行かなければならず、また、海外に行くには費用がどうしても掛かってきます。海外渡航の費用が無い場合は、積極的安楽死を選択する事が出来なくなってしまうため、選択権の有無で日本国民が二分化されてしまう懸念があります。

 次に、文化的背景や日本社会の観点から。

 空気を読む文化や同調的社会である日本においては、介護される側の人が、介護する側の家族や親族を慮って積極的安楽死を選択してしまう事が懸念されます。
 先に出てきたスイスなどの西欧においては個人主義的文化があります。この積極的安楽死を自分で決めるという自己決定権の概念は、個人主義が根付いている西欧社会においてのみ機能する権利の可能性があります。

 最後に、積極的安楽死を望む本人の観点から。

 積極的安楽死を望む方が居ることを把握しておりますし、積極的安楽死を望まない方も居る事を把握しているつもりです。
 これら双方の気持ちや感情は、常に100対0の様に固定されている状態ではないのではないかと考えます。
 積極的安楽死を望む気持ちが日により、時により50対50になったり、80対20になったりするのではないかと想像しています。

 この3つの観点から踏まえると、自分自身が自身の感情や考えに忠実な答えを出せるのかが非常に疑問に思うところです。

 特に、最後の観点では、このグラデーションの様に移り変わる感情で、果たして自己決定する事が出来るのだろうかとも考えます。

 とは言え、日本社会の有り方として、今後「日本社会が積極的安楽死とどの様に関わっていくのか」という国民を二分化するような大きな論点であっても、国民的議論がしっかりなされる事が重要なことだと考えます。

おわりに、
 熟考の末にドキュメンタリーに出ると決められたご夫人とそのご家族には、考えるきっかけや勉強させていただいた事に感謝の念に堪えません。

 本当にありがとうございます。

 また、非常に聡明でありましたご夫人のご冥福をお祈りすると共に、現在いるご家族の皆様のご多幸を願ってやみません。

おわり。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?