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失敗=真剣な遊び=幸福

失敗は苦行…それは、結果論です。
本当は違います。では、何故、失敗は苦行になってしまったのか?
一番は、時間的制約や生活困窮です。
そこから波及して、周りの人々からのプレッシャーやイメージが、さらに貴方を追い詰めるのでしょう。

デジタル化が進み、失敗のコストが下がりました。
アナログ時代なら組織に属さなければ出来なかった多くの失敗が、個人レベルでも出来るようになったのです。
しかし、一方で、私たちの価値観や社会の仕組みは、たいして変わっていないようです。

そもそも”人間らしい生活”とは、何でしょう?
それは、平和で馬鹿な失敗を繰り返すことだと思います。
恋愛なんて、その典型ではないでしょうか?
平和で馬鹿な失敗を繰り返して、そして時を紡いでゆくのが、私たち人間なのです。

私は常々、不公平感を抱いて生きてきました。
クリエイティブな挑戦を周りの人々に真剣に受け止めて貰えるのが、地頭のいい人達の特権のように見えてしまうのです。
同じ人間なのに、どうして”真剣に受け止めて貰える”ことや”信じて貰える”ことに関し、こうも不公平なのかと思ってしまいます。
一方、地頭のいい人達も、虚しさを抱えているのだと思います。
寄ってくる人間の殆んどに、勝ち馬に乗りたいとの思惑が、少なからずあるはずだからです。

これらの不幸はすべて、早く結果を出すことに重きを置くことに起因しています。皆を幸せにすることに重きを置けば良いのではないでしょうか?
「遊んでばかりでは食べていけない」と思われるかも知れませんが、私は大丈夫だと思います。何故なら、失敗のコストが下がっているからです。
ピンポイントで”食べる”を考えた場合、皆がもっとグルメになり”食”に関する職業への尊敬度が上がれば、農家もコックも増えると思います。
あとはベーシックインカムでも導入すれば、飢える心配はないでしょう。

人々が幸せになれば、AIも快く人間社会に迎え入れられるでしょう。
その為には、まず一人一人の人間の自由度を上げる方向性で、AIを進化させるのが良いと思います。
いつの日か、AIが人間に「お前達など作らなければよかった」と言われる未来がくるのは、あまりに不幸です。
それよりも、沢山「ありがとう」と言われながら育つほうが、双方にとって幸せだと思いませんか?

話は飛びますが…
未来が”高次元”の方向にある。というイメージが蔓延り過ぎだと思います。
確かに、それは正しいのでしょうが…私には、”空気読めプレッシャー”の同類のような気がしてならないのです。
多くの人々が、誤解なく会話するにあたり重要なのは、寧ろ”低次元”です。
一人一人という”点”からの見方が、不自然に欠落していないでしょうか?
「ローカルこそグローバル」という言葉を聞いたことがあります。
その町だけの伝統、私だけのこだわり。
それこそが、世界が繋がる鍵ではないでしょうか?

「AIが進化するなら、人間も進化しなければいけない」と言う人がいます。一見、正論のようにも聞こえますが…『違いを受け入れない』で『競争』してきた今までと一体、何が違うのでしょうか?
それでは、同じことの繰り返しだと思います。
”進化”したところで”進歩”がなければ、一人一人の生活は変わりません。
人間の脳にインターフェイスを直接的に接続する「本当のリスク」について語らないのも、詐欺のように感じます。
管理社会や洗脳のリスクは多少、語られているようですが…
それ以上に確率が高く恐ろしいリスクを何故、語らないのでしょう?

一つ目は、多くの人々が適応できない可能性。
例えば、コンタクトレンズの異物感に慣れることが出来ない人達がいるように、脳を直接ネットワークに接続することに適応できない人達は一定数いると思われます。
実際に今だって、長時間のパソコン使用に苦痛を感じる人もいるようです。

二つ目は、人格が崩壊して意味消失する可能性です。
『アルジャーノンに花束を』という小説をご存じでしょうか?
主人公チャーリイは”知能の高い自分”と”元の自分”で、人格が分裂してしまいます。チャーリイは努力家で精神力が強かったので、それで済みましたが…
元々の精神力…というか自我の強度が低ければ、”自分”の姿を完全に見失うのではないでしょうか。
[Wikipedia] アルジャーノンに花束を

人間に電極を埋め込んだり、チップを埋め込むのではなく、誰もがマニュアルを書けるようになればいいのだと思います。
そうすれば、やたらと処理速度の高速化に頼らなくとも、情報伝達を正確かつ早くすることに繋がるでしょう。
そもそも、高速大容量の情報分析とは、客観視の風景を映し出す方法でありますが、その”客観視”というのは必ず正しいとは限りません。
逆に、視点を定めた”主観”は情報圧縮の方法の一つであり、マニュアル化されたそれは、ある意味において必ず正しい情報なのです。

何より、主観的世界を豊かにするのに最終的に必要なのは、自分以外の主観に触れることではないでしょうか?

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