糸井重里とUBERと「きれいな世界」

今日になって炎上しているこの発言。どういう経緯でこの発言があったのかわからず調べていたが、何の前ぶりも経緯もなくポロリと発言したっぽい。まあ、糸井氏らしいといえばらしいが。

炎上の大半は、糸井氏の一方的なものの見方を批判するものだった。結局糸井氏は現実社会の様々なことを見通す力がもうないのだろうな、ということを改めて感じる程度である。

一方で、下のようなコメントもある。

しかし根本的には、糸井氏の発言は、配達員は「下流の負け犬ポジション」という以前の問題がこの世界にあることを理解していない。3つ目のツイートも、あまり問題の本質を理解していないと思われる。

1.糸井氏のUBERに対する根本的な誤解

この対談(2011年11月)中盤で糸井氏自身が述べているのだが
『糸井 僕は元気があったから面白がられて、色々なことをやりました。さっきの、「健全な好奇心」て言葉は本当に素晴らしいと思うんだけど、それを持たずに、本当はよくわかっていないことを、言葉や態度として決めてしまったときに、世界の形がきれいに見えてきて、間違っていく。その鋳型を作ってはめていこうとしている人がたくさんいる。
これを昨日のTwitterに当てはめてみると、「食品を扱う以上きれいな身なりで自転車も、、、」ということをのものが鋳型にはめているようなものではないかと思う。

そもそもUBERは「配達員の外部化」であり、郵便やヤマトや佐川の人のようにユニフォームもなければ決まりも貸与される車も自転車もない。誰もがその場にある移動手段ですぐに仕事ができるという「新しい仕事の仕方」を提案するものである。好きな時間で仕事ができる人が配達をしているものであり、決して『ほかに仕事がないから仕方なくその仕事をして糊口をしのいでいる』人がメインではない。

もちろん、そういう糊口をしのいでいる人がゼロであるとは言わないし、このコロナ禍で本業の稼ぎが少なくなり、配達員でその穴埋めをする人はいるだろうが、それは本質的なものではない。この私も、コロナ禍でコンサルティングの営業などができなくなったりなどで収入に不安があるが、その隙間を埋めるために複業クラウドなどのサービスで仕事を探して、自分の時間を有効的に使えることができたりしている。働き方が新しくなっていることをもっと理解した方がいいのではないか。

サンダル履きで自転車乗るのは危ない、というのは子供のころ大人から怒られたこともあるのだろうが、別にけがをしてもそれはその人の責任であり、別に他がとやかく言うことでもないだろう(車の運転はサンダルNGだが)。

身なりに対しても、食品だから衛生感がなどというレベルも子供じみた指摘で、使った人ならわかる通り、店で完全にパッキングされたものを運ぶだけである。扱いが悪くてこぼれたりひっくり返ったりということで一時期批判はあったがそれとて配達員の個人的な問題とそれを防ぐよう配達員に指導できるかどうかのシステム的問題であり、衛生とは直接関係もない。まさに、【本当はよくわかっていないことを、言葉や態度として決めてしまったとき】のような発言ではないのか。


2.きれいな社会はどうすれば実現できるのか

先ほどの対談からさらに引用させていただく
『大野 「団塊ジュニア」とか「ロスジェネジュニア」の人たちは、「こう生きなきゃダメだ」みたいなのをすごく言われていると思います。「絶対就職できなきゃだめだ!」みたいな。それですごく苦しむんですよね。

糸井 やっぱりこれも仕組みの問題だと思うんだけど、そうじゃない生き方の見本がないんですよね。図面を広域に書くことができない。「歴史に学ぶ」ってよく言いますけど、歴史って全部「事実婚」の連続で。幕末の尊王だ、攘夷だ、開国だっていうのも、結構めちゃくちゃなんですよね。国の行く末を左右するような人たちが自分の立場をころころ変えていたりするし。

大野 たしかに(笑)。

糸井 全部を透徹して見ていた人なんて一人もいない。OKじゃないですか。その都度間違いつつ進みつつで。スポーツでも、モデルケースになるような際立ったプレーがあると、全体の底があがるんですよね。』

最後の方で糸井氏自身が認めているように、間違いつつ進みつつという世の中がいいのだ、というのであれば、今この瞬間生きている人たちでも、間違えている人が大勢いることがよいことだということになる。それは、着こなしだったり、仕事の仕方だったり、マナーを守らなかったり知らなかったり。でも、そういう人たちも別にそれはそれでそのあと学んだり反省すればいい。

で、もしそういう「マナーなどの間違い」を徹底期にゼロに近づけるような世の中的な仕組みを作ろうとすれば、家族や学校だけでなく全社会的に「マナー教育」を全国民に施すということが必要になるのではないか。それこそ、先ほど引用した部分の前半にある『「こう生きなきゃダメだ」みたいなのをすごく言』われる社会ではないのかなと思う。

個人的には、先の糸井氏の炎上は「世の中は自分が考える以上に新しい時代に差し掛かっているのに、10年前くらいの基準で今も世の中を『断罪』して、それでいて未だ時代の寵児(≒売れっ子芸人)気分でいる」ことに対する不信感によるものだと思われる。まあいつものことだが。

こういう指摘をしていくとどんどん文章が長くなるので最後に、この対談の言葉にもう一つだけ対して突っ込みを入れて終わりにする。

『糸井 今は「大衆が考える責任」についてまで考えますよね。今聞かれて初めて思ったけど、本来人が感じるのって、火事を語るのと同じようなもので、「この世界への意義」とか「時代の刻印が」とかって言う必要もないんです。「すごい時代になっちまったねー」って近所でやりとりされて、そのまま日常の会話の中に、すーっと戻っていく。』

おそらく、糸井氏は、てきとーな身なりでサンダル履きなどで食品を運ぶのを「すごい時代になっちまったねー」という気分でつぶやいたのだろう。しかし、自身の持つ権威性も含めて、そこに「ルール」という言葉を使ってしまったのが炎上をさらに加速させていると思う。そういった新しい働き方に伴い今の世界の現状を「ルールに従っていない」という視点で語ってしまったのだから。

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