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「欲しいものは、」

「そういえば誕生日プレゼント貰ってない」

何気なく発したつもりの言葉だった。私の誕生日は9月の末。一緒に暮らし始めて1年が経つ彼は、ハッとした顔でこちらを向いた。彼が、腰が痛いからと受診した整形外科の待合室のでのことだった。この日初めて受診した個人医院は混雑していて、普段会話をしない私達は呼ばれるまでの間待合室に備え付けられたテレビを観ながらあーだこーだ突っ込んでは時間を潰していた。

「誕生日ケーキだけで済まされた気がするんですけど」

続けて私が言う。抑揚の無い声は機嫌が悪いわけではない。ただ単に話題が無くて過去を巡ってるうちに思い出したから口にした。誕生日なんて特別な日ではないし何の節目でもない、ましてや30近いいい歳した大人だ。盛大に祝って欲しいつもりもないし、第一、二人ともその時期は仕事が忙しくてすれ違いが多かった。ケーキを買って僅かな隙に帰ってきてくれただけでも感謝しなければならないくらいなのだ(蝋燭も何もないカットケーキだったけども)。

けれどそこはまだ乙女心が勝つ。

周りの女子が、高級レストランでフレンチだの旅行だの、アクセサリーを貰ったとかプロポーズされたとか、そういった"マウント"を見かける度に胸がざわざわするのだ。そのサプライズを準備している間、彼は彼女の喜ぶ顔を想像していたんだろうか。想像してにやけてしまったりするんだろうか。

うちの人もそうやって私のことを思ってくれたりするんだろうか。

斜め前の椅子に座るおばさんは忙しなくガラケーを開いたり閉じたりしている。まだ診察は呼ばれないのだろうか。テレビはバラエティ番組からニュースに変わり手持ち無沙汰になった頃、

「あの、」

「ん?」

「考えてはいるから。何が欲しい?」

また無言になった。私達二人に沈黙は珍しくない。欲しい"物"なんてない。高いアクセサリーもハイブランドのバッグも、貸切露天風呂付きの旅館やお洒落なディナーも。

「特に無いかな。今はー」

看護師が向こうから名前を呼んだ。はいはいと彼は立ち上がりすたすたと、受付にごった返す老人たちの隙間を縫って消えていった。

寄り添ってくれる時間が欲しい、なんておかしいだろうか。

看護師たちが動くたびに中待合室に座る彼の横顔が見え隠れする。突如として一週間も悩ませた原因不明の腰痛に表情は不安そうだが、きっと私の方が不安な顔をしていたに違いない。マスクをしていて良かった。リュックの中に小説を忍ばせていたことを思い出し手を伸ばす。厚さ二.五センチのハードカバー。付き添いは暇するだろうと思いこの本を選んできたが、本心はこんなの必要としていなかった。

「寄り添ってくれる時間が欲しい」

マスクの中で小さく言葉を紡ぐ。左隣に腰掛けた婦人がちらりとこちらを見た気がした。小説じゃなくて旅行のガイドブックにすればよかった。もしくは、美味しいランチのススメ。微かに唇が震え目頭がじわりと熱くなった。今日は食材を買ったら早く帰ろう。いつの間にかニュースは終わって、テレビは昼のワイドショーを映し、病院には不釣り合いな芸人のけたたましい笑い声が響いていた。





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