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【かんがえること】 第4回 高野洋平の語ることについて考えること

廣木響平の考えること



そもそも図書館建築は美しさを求めるべきかどうかという議論があるのではないかと思う。

仮に中身が良いものならば、建物は使いやすければ使いやすいほど良く、使いやすいということは極めて機能的で華美なデザインを排した方が良いはずでは?と考えたりすることもある。

だけれども私が常に心配しているのは中身が良くたって、使ってもらわなければ何の意味もないということ。

高野さんは魅力的な建築だけでなく、環境も含めあらゆるものを排除せず、多くの人にとっての居場所となる建築を目指す。周辺と調和する建築はきっとデザイン的にも魅力的なものであり、それはこれまで一度も図書館を使ったことが無い人に訴求し、図書館の真の魅力を気づかせてくれると信じる。

図書館は使われなければただの本を保管するコンクリの塊になってしまう。それを回避する術がここにあると感じながら話を聞いていた。

アンビエント・ミュージック(環境音楽)の創始者と言われるブライアン・イーノ氏は無駄なものを排除する引き算の音楽を構築し、その無意識に聴かせる美しさにより日常に溶け込んでいく。高野さんの建築は結果として調和という意味ではこれに似ているが、一方、何事も排除しないという意味では産業プログレのひたすら足し算の概念と共通している部分もあり、そこはどうなるんでしょうね?という気分もある。

が、それがそうなる訳ではないのは、おそらく「何も足さない。何も引かない。」サントリーウィスキー山崎のような、そこにある全てを引きもせず、足しもせず、正面から受け止め、まとめあげているということが素晴らしいのはないかと考える。

それはきっとその土地でしか無し得ない、世界で唯一無二の図書館建築になるのだろう。

染谷拓郎の考えること


建築家の方とお話しすると、いつも新たな発見がある。

建築は様々な要件・条件・状況・歴史に紐づいていて、優秀な人であればあるほどそれらを常に考え、更新している。高野さんのお話しを聞いていると、やわらかい語り口ではあるものの「すでにそれについてはしっかり考え尽くしてきました」という自信を感じて、思わずたじろいた。

高野さんは冒頭、「人のいる場所」ではなく「人のいられる場所」をつくるとお話しされていた。居場所づくりが大切だ、という言説は様々な場面で見るけれど、居場所はそんなに簡単には見つからないし、そこを自分の居場所にし続けることはもっと難しい。

「ここ好きだな」と思ってもらうためには、建築(ハード的)と、それをより魅力的にしたり広がりを持たせるためのコンテンツ(ソフト)が組み合わさって、はじめてその人にとっての居場所になる。公園にベンチ(ハード)を置いただけでは足りない。木々が茂り、鳥がさえずり(ソフト)、そこでたたずむのが気持ちいい、となる。

中盤、高野さんは建築をする上での自分のシグニチャーモデルは持たないと言っていた。つまりアウトプットが似たようなものにならないということだ。(誰とは言わないけど、一見して誰の建築かすぐに分かるものがありますよね。あれがシグニチャーモデル)

友人の家を設計した話や、伊東の図書館計画でも、それぞれの場で一番求められるものはなにか、一番相応しいものはなにかをその都度、はじめから考えている。その考えるプロセスが毎回まったく違うものではなく、思考に順序や法則が見られる。アウトプットは違っても、それぞれの場が有用に機能するため思考プロセスにはシグニチャーがある。

表現ではなく思考にシグニチャーを持つこと。

これは、どんなプロジェクトを進めていく際でも大きなヒントになるはずだ。アウトプットが同じものは金太郎飴を産むけれど、良い思考プロセスが法則化できればアウトプットは「それぞれ違う良いもの」になる。

建築でしか作れない自然をつくるという発想も面白かった。自然のなかの自然ではなく、建築でしか作れない自然がある。廣木さんはブライアン・イーノの例を出しているが、「人間がつくる自然」という環境音楽もまさにそれを指しているのだろう。レイ・ハラカミの作る電子音を聞くとは、まるで自然の中にいるような気分になる。

僕たちは「自然そのもの」を生み出すことはできないが、「自然になる」環境をつくることはできる。今回の対談を通じて、その人にとって一番居心地がいい場所をつくっていくためのヒントをいただいた。