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ちょっとした違和感について考えてみた

今回のネタは「学び直し」「リカレント教育」「リスキリング」あたりの捉え方について。

最初に断っておきたいんだけど、個人的にはそれらに関する取り組みだったり、個々の動きに対してどうこう言うつもりは全くない。何にせよ学ぶという行為は大切だと思うので。
ただ、それらの言葉が持つ意味や報道のされ方、それらの言葉を通じた世間一般的な捉え方や価値観に対して違和感を持つ学生が、そこを切り口とした卒論に取り組もうとしていることもあり、僕も少しだけ考えてみた次第。
最近たまたま見かけた報道タイトルをみた瞬間に、その違和感のことを思い出し、なるほど、そうかもねって思ったのもあって。

タイトルの一部にはこんな表現が。
働く人たちが学び直す「リカレント教育」
この部分をみて、その学生が持っていた違和感、周囲から受けた目の意味がなんとなく分かった気がした。(再度断っておくけど、この記事で取り上げられた取り組み内容に対して何かを言うつもりは全くない。)

その理由について説明するにあたって、僕自身の前提についてまず触れておきたい。
学ぶことに対する、いまの僕の考えは、
人は人生を豊かにするために、いくつになっても学び続ける必要がある、
というもの。

だから、勉強するのは学生まで、社会人になってからは仕事、っていうわけではないと思っている。(恥ずかしながら、大昔はそんな風に捉えていた部分もあったけど、いまは全く違う)(あと、勉強と学習の違いについても触れたいけど今回はスルーしておく)

そういう考え方だという前提にたてば分かってもらえると思う違和感はこんな感じ。

「学び直す」っていう時点で、なんで?ってなる。そもそも学び続けるのが当たり前だから。
あと、「働く人たちが」っていう枕詞がついている時点で、社会人になったら勉強から仕事っていう価値観が前提になってそうなことがわかる。
そして、冒頭にあげたキーワードの目的に着目すると、多くの場合、スキルアップとか、仕事に役立てるとか、大まかにいうと仕事に活かすためっていう考え方が前提になっていることがわかる。
その学生がとくに違和感をもっていたのが3点目の部分だった。

そんな風に考えてみると、ある程度年齢を重ねたタイミングで、様々な機会を利用して学ぼうとする人をみたとき、世間一般的には、仕事に生かすためにやってんだなっていう捉え方しかできない感じになっているんだろうな。
それならばまだマシだけど、僻みだったり、信じられないっていう感覚で、なんでそこまでしてっていう感じに捉えられることもあるようだ。それはある意味、ステレオタイプな古い価値観による弊害みたいなものかもしれない。
だからこそ、その学生は、周囲からのそういう反応にさらされることで、違和感であったり、時には憤りすら感じたのだと思う。

そもそも、仕事が大事なのはわかるけど、当然ながら、仕事だけが全てでもない。そして、その濃淡はライフステージによっても変化するものだと思う。

そして、人間である以上、幸せになりたいとか、豊かな生活を送りたいっていうのは、根源的な欲求でもあるだろうから、そう考えるとキャリアにしぼった捉え方というのは、表面的か一面的もしくは部分的でしかないと思う。

さいごに、唐突だけど、最近よく触れている「古典ラジオ」は、僕にとってほんとに大きな変化をもたらしてくれているし、大いなる学びをもたらしてくれていると思っている。おかげさまで頭の中の感覚世界がどんどん広がりはじめている気がする。若い時のそれとは違う、受け取り方の幅というか包容力というか、そういう意味での感受性のようなものが豊かになってる気もする。
だからこそ、今回のような人が感じた違和感みたいなものに対して、これまで以上に真摯に向き合い、思考を巡らすことができるようになってきたんだと思っている。
この歳になってようやく?って思われても全く構わない。
現在進行形で進化している実感は僕だけのものだから、それでいい。

「その違和感は正しい」

何人かの知人から同じような台詞をきいたことがあるけど、ほんとにその通りだと思う。

ということで、今回も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました!

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