昨日の続き

  わたしの本能は「危急的速やかにその場を離れるように」と警鐘を鳴らした。この場に留まって得られるものは皆無であり、踵を返して脱兎の如く逃げ出さなければ間違いなく戻ってこれない世界の入り口に蹴り込まれてしまうことだろう。

  わたしは額にたらりと汗を垂らし、”それ”から逃げるタイミングをうかがった。

“ヤレ”

  一瞬の出来事だった。”それ”は鞭のように腕らしきものをしならせ、わたしの喉元に向かって「何か」を叩きつけた。ペチッ、といやに生き物めいた音を立てて”それ”はわたしの首元に、視界から一筋の閃光が飛ぶような痛みを与えた。

!?!?!

  わたしは意味不明の何かに遅れをとったことにひどく狼狽し、そして同時に首元に感じる何かヌメヌメした感触に恐れをなした。「なになになになに…!?」心の中はパニック寸前で、恐怖と気持ち悪さから足は地面に根が張ったように動けない。「お父さん、お母さん、助けて…!」わたしは祈った。今度から神様などに祈るのは絶対にやめよう。そうわたしが決意したのはこれからさらにずっと後のことだった。

「ケケケ」

  “それ”はおぞましい顔に満足げな表情をフッと浮かべると、一拍を置いたのち霞(かすみ)のようにかき消えた。いましがた起こったことの意味のわからなさにわたしは呆気にとられ、その次に怒りと悲しみと恐怖が同時にこみ上げてきた。「ええっ…」わたしはただそう呟くことしかできず、とりあえずその場から逃げるように自転車に跨って闇雲に走り始めた。「ええっ…!?ええっ…うわあっ…わあっ…」一体なんなのか、なんだっていうのだろうか、わたしが何か悪いことでもしたというのだろうか。わたしは先ほど起こった出来事を何度も脳内で反芻(はんすう)し、恐怖と闘いながら、一体いま何が起こったのかということを必死に解明しようとした。

  「やだっ、やだぁっ…!」数十分も自転車で疾駆したあと、わたしはふと自分の首筋に手をやった。そこには先ほど起こったことが嘘でない証明のようになにかヌメヌメとした黒いゲルのようなものが張り付いていた。その気色悪い感触にわたしは絶句し、道端のコンビニに駆け込んでトイレの洗面台で首元を確認した。するとそこには10円玉代の黒い粘着質な何かこびりつき、必死にゴシゴシと洗い落とすと、謎の模様のようなあざが浮き出ている。

  「ええっ…!」わたしは意味のわからないことに巻き込まれた絶望に目の前が真っ暗になり、思わずその場にしゃがみ込んだ。あざは何度ゴシゴシと擦っても落ちる様子もない。どう考えてもあの謎の何かが残していったこのアザがろくなものであるはずはなく、最悪今晩にでも高熱にうなされて死ぬかもしれないという想像が脳裏をよぎった。



  次の日、わたしは一睡もできないまま電車に揺られていた。昨日の事件のせいで自転車を使う気には到底なれず、仕方がないので目の下にクマを作りながら電車に揺られてトボトボと登校するほかなかったのだ。結局、謎の何かとの邂逅(かいこう)をどうしても親に言い出す事はできず、昨夜の晩はずーっと「わたし、死ぬのかなあ…」という恐怖からまんじりとすることもできなかった。財布には電車代と、学校の後に病院に寄って検査してもらうための数千円が入っている。

  授業の間もずっと先生の話に集中できるわけもなく、うわの空ですべての内容を聞き流した。わたしの表情があまりにも暗いので、友達は一緒にご飯を食べながら心配そうな顔で大丈夫…?と聞いてくれた。しかし一体何を言えばいいというのだろうか。「正体不明の化け物に襲われかけて死の恐怖に怯えている」と伝えれば、心配されるのは今度は体調ではなく脳の病気ではないだろうか。わたしはどんな顔をすればいいのかもわからず、あいまいな感じでありがとうと呟くことしかできなかった。

  学校の帰りに総合病院に寄ってとりあえず何科に行けばいいのかもわからないので、受付のお姉さんにに「変なあざができたんですけど、何科にかかればいいですか」と尋ねた。「そうですねー、皮膚科か内科かもしれないですね」とお姉さんが言うので私は律儀に皮膚科と内科の窓口にそれぞれ行って、どちらの先生の問診にも答えた。

  現代医学がもののけとか、超常的な何かによってつけられた跡に太刀打ちできるのか、正直な話わたしにはわからなかった。けれどもいま縋(すが)れるものはこれしかない。わたしは不安でいっぱいな内心を圧し殺して粛々と先生たちの質問に答えた。先生たちは神妙な顔をしてわたしの首元を眺め、とりあえずいくつかの塗り薬を処方した。「とりあえずこれを塗って治らなかったら、またきてください」と言われて、わたしは病院を後にした。

  

生活費の足しにさせていただきます。 サポートしていただいたご恩は忘れませんので、そのうちあなたのお家をトントンとし、着物を織らせていただけませんでしょうかという者がいればそれは私です。