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ぽこちゃん

 私がそれを見つけたのは6月最初の月曜日だった。学校からの帰り道、電柱にくっついた黒い塊を見つけた。切り開いた茄子のような形をしている。近づいてみると、それはカブトムシだった。すぐに判別できなかったのは、艶のある翅が歪み、捲れていたからだった。ツノの形で辛うじてカブトムシだと分かった。
 カブトムシの背中をみる。柔らかそうな肉の部分に、ごつごつとした岩がくっついている。それは頭から尾の先まで続いており、遠くから見ると人間の背骨のように見えた。背骨が翅の成長を阻害して歪ませていた。私はカブトムシのツノを撫でる。嫌がるそぶりは見せない。ろくに動けないのか、電柱をもぞもぞと蠢いているだけで何もしなかった。
 雨が降ってきた。私は折りたたみ傘を開く。今年の梅雨は激しいようで、すぐにアスファルトが黒くなった。熱気のこもった雨の匂いがした。傘を持っていないカブトムシの表面は水滴で鈍く光っていた。電柱の上ではなすすべがないようだ。できそこないの鎧では雨は凌げず、6本の脚をもたもたさせるしかなかった。
 私は傘を差してあげようと思ったが、やめた。少しだけカブトムシが濡れる姿を見ていたかった。
 カブトムシは風邪をひくのだろうか。口に水が入りすぎたら溺れ死ぬのだろうか。私は慌てふためくカブトムシを見ながら思った。
「ごめんね」
 傘を差してあげると、良い気持ちがした。大人になったみたいだった。私はもっとカブトムシを守ってあげたくなった。短いツノを持って電柱から引き剥がした。カブトムシは宙で足掻いた後におしっこをした。
「びっくりしたね」
 家に帰る間、全く飛び立とうとしなかった。このまま放っておいたら本当に死んでしまうかもしれない。私は可哀想なカブトムシを助けてあげている。そう思うと、自分が世界一優しくなったみたいだった。
 瑠璃は可愛い。お父さんとお母さんが一番言ってくれた言葉だ。朝起きたら、おはよう、今日も可愛いね。ご飯を食べたら、もぐもぐして可愛いね。服を着替えたら可愛いね。 でも、私が可愛いのは外側だけだ。性格を褒められた記憶はない。正直に言えば、外側を褒められることに少し飽きていた。分かりきった言葉は響かない。内側を褒められたかった。
「飼ってもいい?」
 私はお母さんにカブトムシを見せた。お母さんは困ったように笑った。
「ちゃんとお世話できる?」
「大丈夫だよ」
「瑠璃ちゃんがそう言うならいいけど……。ちょうど良さそうな瓶探してくるわね」
 夕ご飯の匂いがしてくる頃になった。
 瓶に新聞紙を詰めて私はカブトムシの部屋を作ってあげた。土を敷くために雨の中出るのは嫌だったから仕方がない。
 蓋の部分には使ってないバーベキューの綱を置き、風通しのいい玄関の靴箱の上に、瓶を設置した。上から覗くとカブトムシは這い上がろうとしてガラスに脚を取られていた。
「またあとでね」
 私はランドセルの底にあった飴玉を入れて夕ご飯に行った。
「いやぁうまいな。母さんはなにを作ってもうまい!」
 お父さんがお母さんの料理を褒める時の言葉は決まっていた。
「瑠璃ちゃんも食べてごらん」
 私は二口目のシチューを口に運ぶ。顔の筋肉を目一杯動かす。
「美味しい!」
 お母さんとお父さんは嬉しそうに笑った。ご飯のときはこれが一番喜んでくれる。
「やっぱり瑠璃ちゃんは何をしても可愛いね」
 お父さんは私の頭を撫でた。今なら褒めてくれるかもしれない。
「お父さん。私ね、カブトムシを助けたんだ」
「おお。いいじゃないか」
「それでね──」
「生き物が好きな瑠璃ちゃんも可愛いぞ〜」
 お父さんは私の目を見ていなかった。やさしいと言ってほしいだけなのに。
 夕ご飯が終わって瓶を覗いた。飴玉は少しも減っていなかった。
「じゃあね」
 私は綱を外してカブトムシを掴む。そのまま外に放った。背骨をもぞもぞと動かして這う。カブトムシは傾いた身体を戻せずひっくり返った。
「ぶすだなぁ」
 私は玄関の扉を閉めた。二階の寝室に上がると、雨は先ほどよりも強くなっていた。

 次の日。下階が騒がしくて目を覚ました。
 階段を降りていくと声が大きくなった。
「可愛いねぇ」
「よしよし……可愛いなぁ」
 玄関を覗くと、お父さんとお母さんが靴箱に集まっていた。
 ふたりの間を見ると瓶があった。中にはできそこないのカブトムシがいた。私はぎょっとした。
「母さん、見てごらん。こんなに食べてる」
「食べ盛りね。いっぱいもぐもぐして可愛いわ」
 瓶の中にはバナナが入っていた。カブトムシは張り付いて中身を貪っていた。
「おはよう」
 私が後ろから声をかける。ふたりは一瞬、聞き慣れない言葉を耳にしたような顔をした。
「おはよう。瑠璃ちゃん。寝癖が可愛いわね。ご飯できてるわよ」
 いつものようにお母さんは笑った。
「じゃあ、行ってくるね。瑠璃ちゃん」
 お父さんは私の頬に軽くキスして家を出た。
「いってらっしゃい」
 家を出る前も、カブトムシに手を振った。
「朝ね。玄関の前で裏返しになってたのよ」
 お父さんを見送った後、お母さんはトーストを齧りながらそう言った。
「瓶から出ちゃうなんて元気だね」
 私は知らないふりをした。
「昼間のお世話は任せてね」
 それからも、私が家を出るまでお母さんはあのカブトムシの話をした。可愛い可愛いと言うけれど、その言葉は私に向けてではなかった。

 学校にいる間も、カブトムシとお父さんたちのことを考えていた。ふたりがあんな風になるのは初めて見た。電柱で、あれを見つけたときの私もあんな風に見えたのだろうか。私は考え直した。珍しいものは珍しさがなくなるまでが賞味期限だ。帰ったらいつも通りになっている。今日はお母さんの手伝いをしてみよう。お父さんには河原で見つけた花をあげることにした。

 家に帰ると、お父さんの車が停まっていた。私より早く帰ってくるのは初めてだった。
 扉を開けると、朝と同じような光景があった。ふたりは瓶の前で顔を寄せ合っていた。瓶の中にはゼリーが入っている。新聞紙は黒い土に代わっていた。
「ただいま」
「おかえり。すぐご飯にしましょうね」
 お母さんはそう言って台所に向かった。
「お父さん。これ」
 白い花びらを見せても、お父さんはこっちを見なかった。仕方なく私はお父さんの手に花を握らせた。
「お父さん。私可愛い?」
 カブトムシは歪んだ翅を振ってみせた。背骨が昨日よりぬらぬらと艶がかかっているように見えた。
「可愛いねぇ……可愛いねぇ……」
 お父さんは口を半分開けて瓶を見ていた。
 食卓についても、カブトムシの話ばかりだった。
「ぽこちゃんね、私が話しかけると話してくれるのよ」
 お母さんはカブトムシのことを「ぽこちゃん」と呼んだ。
「ぽこちゃんか。とっても可愛い名前だ。瑠璃もそう思うよな?」
 お父さんが嬉しそうだったのでうなずいた。私はなんだか気持ち悪くなった。
「ごちそうさま」
 それ以上ご飯が食べられなかった。私は早く寝ることにした。二階に行く前に玄関を通りがかる。瓶の中に花があった。お父さんにあげた白い花がカブトムシに寄り添っていた。頭が真っ白になった。私は瓶に手を入れて、カブトムシを掴んだ。短いツノを折りたくて仕方なかった。
「瑠璃ちゃん」
 お母さんの声だと思ったけれど、台所から洗い物の音が聞こえた。
「ここだよ。瑠璃ちゃん」
 聞き違いじゃない。カブトムシが声を発していた。
「ありがとう」
 カブトムシの声は聖歌隊のような清らかな響きだった。
「お家に連れてきてくれてありがとう」
 ツノを掴む。反対に曲げればすぐに折れてしまう。
「やさしい瑠璃ちゃん」
 私は手を止めた。それが一瞬だったのか5分だったのか分からない。折ってしまえば私の心は一生このカブトムシのようにブスになってしまう気がした。
 私はカブトムシを瓶に戻した。雨はまだ止まずに降っている。玄関の戸に青白い光が瞬いた。遠くで雷鳴が聞こえた。

 7月になると朝日ですら皮膚を焦がしそうだった。私は太陽を避けるようにして起きる。玄関は今日も騒がしい。
 階段を降りると、生ゴミの臭いがした。しばらく居間と台所を誰も片付けていなかった。
「可愛いねぇ。いっぱいもぐもぐするんだよ」
「リボンも似合うわねぇ、ぽこちゃん」
 お父さんとお母さんが嬉しそうに瓶を囲んでいる。ぽこちゃんはツノにピンクのリボンを巻いてもらっていた。
「おはよう」
 お父さんとお母さんはもう私に見向きもしなくなっていた。
「おはよう。ぽこちゃん」
 私は瓶に微笑む。ぽこちゃんは私のやさしさを知っている。ぽこちゃんがいたら、私はやさしい瑠璃ちゃんになれる。
 それだけで、もうよかった。

【了】

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