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林檎破殺拳 THE RED FIST

【以前、カクヨムで行われた第一回アップルパイ(恋愛)文学大賞に参加した際の作品です。】

1

 扉を開くと紫煙が主より先に出迎えた。
 書斎で男は机に向かっていた。解きかけの新聞のクロスワードパズルを隠しきれなかったのは、俺が突然入ってきたからだろう。視線を上げるなり男は煙草を落としかけた。
 俺は構わずビニール袋を投げる。
 袋が放物線を描く。ペルシャ絨毯にワンバウンドする。袋の中身が転がった。
 女の生首だった。眉間に穴をあけ、女はひどく曖昧な表情を浮かべている。男が驚いている間にも冷凍がとけ、切断面が絨毯を黒く染めつつあった。
「"血の女王"で間違いないな」
 俺は尋ねる。
 男はおそるおそる確認し、頷いた。
「本当に戻ってくると思わなかったか?」
 俺の問いに男は狼狽した。
 男の依頼はありふれたものだった。
 妻と娘を殺した女を殺してほしい。
 この仕事が長ければ、この種の依頼は掃いて捨てるほど聞く。
 だが、相手がアメリカ最高の刑務所に収監されているなら話は別だった。スーパーマックス刑務所。"血の女王"マヌエラはそこにいた。ロッキー山脈のアルカトラズ島とも呼ばれるその刑務所は、一日のほぼ全てを独房に拘束される。脱獄した者は建設以来だれひとりとしておらず、殺人とはほど遠い場所だった。
「なんと……お礼を言えば……」
 ようやく男は言葉を発した。
「約束は守ってもらおう」
 男は一枚のメモ用紙を差し出した。紙にはいくつかの数字の羅列がある。
「エル・ブランコの隠れ家だ。この座標で間違いない。私がDEAにいた頃から出入りしていたからな。ミスターシノウ、あの老人は末期のガンだ。目を離していてもいずれ死ぬ。一体彼に何の用が」
「その質問は仕事に含まれない。確認が済んだなら首はこちらで引き受ける」
「最後にいいかね……、ミスターシノウ。これは私の老婆心にすぎないが、化物屋敷には決まって人喰い猿がいる。近づくのは賢明ではない」
「忠告痛み入るよ」
 俺は振り返らず、書斎を辞した。
 夕暮れで空が赤く染まっていた。秋風が通りを抜ける。銀杏の葉が道に黄色い風を巻き上げた。それは見えない誰かが歩いた跡のようにも見える。案外、幽霊は夜ではなく夕暮れどきの誰もいない道を闊歩しているのかもしれない。
 気がつけば仇討ち屋めいた稼業も10年続けていた。その忍耐がようやく実を結ぶ。俺は柄になく感傷に浸っていた。
 車に乗り込むと、彼女が待っていた。口元にはいつもの笑みを浮かべている。
「話し合いは終わった?」
「ああ」
「あの人、いい人そうだったわ」
「いい人だったよ。人喰い猿についても教えてくれた」
 彼女は言葉を紡ぐ前に、ひと呼吸置いた。
「やはり生きていたのね」
「そのようだ」
「おばあちゃんは、また笑えるかしら」
「……きっとな」
 俺はエンジンをかける。低音と振動が身体を包んだ。
 おばあちゃん。その言葉がやけに遠い過去に聞こえた。アップルパイを殺人拳に練り上げた俺のおばあちゃんが生きていたあの頃は15年前に遡る。

2

「言ったろう? アップルパイは殺人拳なのさ」
 春の風が頬を撫でる中、庭でおばあちゃんが僕から5回目のノックダウンを取り、そう言った。
 僕は再び立ち上がる。右足で地面を蹴り、宙返りの要領で、左足をおばあちゃんの脳天に叩きつける。
「サクサクのパイ生地はフェイントそのもの。歯応えで満足させたら本命のリンゴを鳩尾にくれてやる」
 おばあちゃんは右手で僕の足を掴み、引き寄せる。その瞬間、僕は呼吸ができなくなった。麺棒で身体がのされるような感覚が襲う。遅れて、自分の鳩尾におばあちゃんの掌底がめり込んだことが分かった。
「身体の力を抜きな。全身がパイ生地のスカスカな虚になった風にイメージするんだ」
「ふっ……ふぅっ……」
 意識して呼吸すると、少しだけ身体が軽くなった。それでも、起き上がる気力はなくなっていた。無力感が全身を包む。また負けた。毎日、鍛錬の最後はいつも倒れ伏して終わっていた。
「こんなんじゃ……メイコを守れない」
 知らないうちに言葉が漏れる。おばあちゃんはニンガリと笑う。
「そうだよ。あんたは何もできない。妹を守るなんざ夢のまた夢。せいぜい努力するんだね」
 僕を立たせ、続ける。
「身体を洗っておいで。おやつにするよ」
「またアップルパイでしょ」
「おにーちゃーん!」
 滑らかなソプラノの声がした。車椅子を転がし、メイコがおばあちゃん家の玄関先まで出ていた。
「アップルパイ焼けたよー!」
 おばあちゃんは黄色い歯を見せて笑った。
「飽きたんだろ? メイコにゃ悪いが、アタシが全部いただくとするかね」
「バカ、食べる。食べるに決まってるだろ……」
 おばあちゃんは愉快そうにヒャヒャヒャと笑った。



 シャワーで体を流したあと、僕は椅子に座った。最初の頃こそ稽古のあとは擦り傷と打身で動けなかったけれど、今はもう慣れっこだ。
 すぐそばでコンロの赤いポットが湯気をたてている。
 おばあちゃんがポットを傾け、紅茶を淹れる。
「上手くできてるといいけど……」
 メイコがオーブンを開く。パイ生地の香ばしい匂いが部屋を満たす。
「いい匂い」
「僕がやるよ」
 メイコの代わりに鍋つかみでパイを取り出す。
「もう。それくらいできるのに」
「火傷してからじゃ遅い」
 メイコは困ったように眉を寄せる。そうだ。妹はこのくらいもうできる。そう思ってもやめられなかった。
 皿の上にはアップルパイが鎮座している。小鹿のような薄茶色の生地をバターの輝きがコーティングしている。ホールで作るパイはいつも誇らしげで、私を食べられるかしら、と僕に問いかけているように見えた。シナモンとリンゴの香りが鼻腔を満たす。反射的に僕の口内は唾液で満たされた。
「早く机に出しな」
 おばあちゃんが急かす。
 僕は洗いたての花柄のテーブルクロスにアップルパイを置く。
「たまには切らせてよ」
「だめだね。アタシにも勝てやしない坊主がナマ言うんじゃないよ」
「パイくらい切れるって」
「はっ、黙って席にお座り」
「いつになったら子ども扱いやめてくれるんだよ、ばあちゃん」
「ふふ、おばあちゃんはお兄ちゃんが心配なんだよ」
「そんなわけないだろ」
 おばあちゃんがアップルパイを切り出す。ぱりっ、ざくざく、ざくざく。半分に切ったアップルパイから熱々のリンゴが湯気をあげ、ペンダントライトを撫でた。シナモンの芳醇な香りが部屋に広がる。
「さあ頂くとするかね」
 全員分を取り分けると、おばあちゃんは手を合わせた。
「いただきます」
 メイコが作ったと思うと、なんだかもったいない気がした。だが、疲労した身体は無遠慮に栄養を要求していた。
 パイにフォークを刺し、思いっきり頬張る。口いっぱいに広がる果実の甘みとバターの旨み。
「……うまい」
「よかったぁ……」
 メイコが安心したようにため息を漏らす。おばあちゃんも一口かじる。咀嚼とともにニタァっと笑みを浮かべた。
「やるじゃないか」
「おばあちゃんの教え方が上手だからよ」
「そりゃそうさ。アタシほどアップルパイと向き合った女はいないからね」
 おばあちゃんは決まってそう言う。だから最初の稽古の時に聞いた。
「ばあちゃんはパティシエだったんでしょ。なんでそんなアップルパイ好きになったの?」
「人にはね、運命ってのがあるんだ。たまたま、アタシの場合はアップルパイだったってだけだよ」
「へぇ、でもなんでそんな強いんだよ」
「ひろし。好きなものを突き詰めた奴は強くなるんだよ。好きなものはずっと見てても飽きないだろ? 中国にはカマキリや鶴を真似た拳法がある。アタシが思うに、はじめに考えた奴は相当それが好きだったんだろうね」
 おばあちゃんはひと笑いすると、僕を見た。
「アンタには好きなものはあるかい」
「……」
 この時、僕は答えに窮した。おばあちゃん家に来る前、両親は事故で死んだ。未だにふたりの死にすら向き合えない自分が好きなものを持っていいのだろうか?
「僕は……」
「まあいいさ。すぐに見つけられなくていい。……そうだ。好きなものが見つかるまで、ばあちゃんと一緒にアップルパイを好きになりな」
「え?」
「三人でアップルパイ専門店でガッポガッポよ!」
「メイコもかよ!」
 きっとおばあちゃんは、元気づけるために言ってくれた冗談だったのだろう。でも、いつしかアップルパイは僕の中でかけがえのない存在になっていた。
「ひろし! アンタが食わないならばあちゃんが全部食っちまうからね!! へっへへ!」
 無遠慮におばあちゃんがフォークを伸ばしてきた。こういう時のおばあちゃんは本当に食べようとしてくるから油断ならない。僕はちびちび食べるのをやめにして、一口で頬張った。
 メイコが僕を見て笑う。おばあちゃんが心底悔しそうな顔をつくる。いつもの食卓、いつもの景色があった。
 僕はこの時間が永遠に続くものだと思っていた。

3

 夜空に餓鬼が舌を伸ばすように炎があがる。
 次の日、おばあちゃん家は炎上した。
 夕食どきだった。突然おばあちゃんは顔色を変えると、僕たちをクローゼットに押し込んだ。何がなんだか分からないまま、息を潜めていると、何人もの足音が聞こえた。
 扉の隙間から見えたのは、全身黒ずくめでサブマシンガンを持った連中だった。おばあちゃんは逆手に包丁を持ち、次々と黒ずくめの首筋や股の腱を切り裂いた。テーブル、絨毯が赤く染まる。おばあちゃんは表情ひとつ変えない。僕との練習の時とは違い、全てを奪い去る死神が所作のひとつひとつに宿っていた。
 突然、銀色の光芒が閃いた。
 間一髪で、おばあちゃんが上半身をしならせる。頬から血が流れた。背後のカレンダーには柳葉形のナイフが刺さっていた。
「さすがはアカネさんだ」
 暗い響きの男の声だった。声色と同じく、容貌も暗い。髪は長く、後ろに結んでいる。もみあげとつながる髭は整えられ、眼は憂いを帯びている。全身は深海を彷彿とさせる藍色のスーツに身を包んでいた。
「猩々……、こりゃなんの真似だい」
「心当たりはあるでしょう……。エル・ブランコは貴女を必要としている」
「あの男には片目で許してもらったはずだがね」
「彼があの世界に君臨し続ける理由は分かるでしょう。たかが片目で貴女ほどの人材を手放すわけがない」
「買い被られたもんだよ」
「それで、答えは」
「答えはね」
 おばあちゃんがキッチンを背にする。菜箸を手に忍ばせるのが見えた。
「これさ!」
 じゃっ
 という音とともに、おばあちゃんの右手が宙に上がった。同時に猩々の右手も上がる。
 続けざまにおばあちゃんはテーブルをくぐり、距離を縮める。刃物が擦れあう短い金属音が響く。不意に音が止んだ。おばあちゃんと猩々が間合いを開き、互いに牽制しあう。おばあちゃんは、円形の構えをとった。アップルパイのホールの形から着想を得た防御の型だ。猩々が薄く笑うと、再び鋭い音が鳴った。
 クローゼットの視界、ギリギリの所でふたりが戦っているのが見えた。おばあちゃんが包丁で突く。それを猩々のカランビットナイフが受け流す。猩々が包丁をもつ手首を掴み、関節を決めようとした。だが、おばあちゃんはそれを許さない。右脚で猩々の膝を蹴り体勢を崩す。そのまま、猩々の頭をテーブルに何度も打ちつけた。がんっ、がんっ、がんっ。鈍い音がオーク材の天板に響く。もらった。僕はおばあちゃんの勝ちを確信した。
「……ぐっふぅううう」
 苦悶の表情を浮かべたのは、おばあちゃんの方だった。腕を離し倒れると、血の塊を吐き出した。一瞬だが、頬の傷が黄色く膿んでいるように見えた。
「貴女の歳じゃ即死の毒なのに」
「小狡さは変わっちゃいないね……」
 血塗れの猩々がおばあちゃんの脇腹に蹴りをいれる。
 メイコが叫びそうになる。僕は口を押さえるのに必死だった。
「弟子だったあの頃とはもう違う」
 猩々が沈んだ声で言い、右手のカランビットナイフをにぎり直した。そして、左手を開く。掌には二つに寸断された菜箸があった。おばあちゃんの投擲を見てから右手のナイフで切断、破片を左手で掴むという芸当をして見せたのだ。
「貴女も、今じゃ敵わない」
「それはアンタの速さに合わせてやっただけさ」
「減らず口を」
「試してみるかい?」
 猩々がおばあちゃんを仰向けにする。カランビットナイフが閃く。正確に心臓を刺し貫いた。
「おばあちゃん!!」
 メイコがついに叫んだ。猩々がこちらを向いた。
 だが、僕は次の光景に目を見張った。おばあちゃんの土色の腕が猩々に絡みつく。カッと目を開き、おばあちゃんは叫んだ。
「ひろし! ガス栓を開けな!」
 僕は跳ねるようにして指示に従う。
「さあ、行きな!」
「でも……!」
「メイコはアンタが守るんだよ」
 必死に猩々を押さえつけているはずなのに、おばあちゃんはいつものようにニンガリと笑った。
「さあ行くんだよ! 大丈夫。辛くなったらおばあちゃんのアップルパイを思い出しな」
 メイコを背負い、裏口に駆ける。メイコがおばあちゃんに手を伸ばす。僕は振り返らなかった。機関車のように足を動かす。一歩でも距離を離すことが唯一おばあちゃんに報いる手段だった。
 おばあちゃんとの記憶がフラッシュバックする。いつも強かったおばあちゃん。アップルパイを頬張るおばあちゃん。テーブルをみんなで囲んで笑うおばあちゃん。
 おばあちゃん!
 一瞬、振り返ろうとした。その瞬間に爆風が頬を炙った。焦げくささと同時に背中に衝撃を受ける。僕は無意識にメイコを庇っていた。
 胸にメイコを抱いた体勢で、家を見上げた。
 天高く燃えている。童話の鬼たちが家を囲んでいるような赤の暴力。吹き飛ばされ、家までは20メートルほど距離があった。それでも顔全体がチリチリと焼けつくような炎の熱さを感じた。
「ばあちゃん!」
 僕は叫んだ。家を覆う灼熱で、はじめておばあちゃんの喪失を実感した。どうにもならない。そう分かっていても何度も叫んだ。
「おにいちゃん……」
 メイコが呻く。
「メイコ……、どこも怪我してないか」
「分かんない」
「痛いところは」
「ううん」
 メイコは首を振る。僕は最初、否定するために首を振ったのだと思った。
「お兄ちゃん。どこ?」
 じくり、と左頬が痛んだ。先ほどの爆風で皮膚が焼け焦げていた。
 あの時、後ろを見ていたメイコの顔半分は赤く焼け爛れていた。
 僕はメイコを抱きすくめる。
「大丈夫。ここにいるよ」
 メイコが伸ばした手が僕の左頬に触れる。
「怪我したの?」
「ちょっとね。でもばあちゃんの稽古に比べたらへっちゃらさ」
「また強がって」
 メイコがくすくすと笑う。胸の中で声を聞きながら、僕は声を押し殺して泣いた。唇から漏れる音は、メイコの笑い声と似ていた。
 笑っているのか、泣いているのか、分からなくなる。僕はこのまま、図工の水彩絵具のようにメイコと混ざり合ってしまうんじゃないかと思った。
 力が抜けていく。メイコの体温が眠気を誘う。瞼が開かない。
 意識を失うまでの間、僕は「猩々」「エル・ブランコ」の名前を思い出していた。

4

 グアテマラの中央の湖畔にその白い城塞は建っていた。コンクリート壁が外側を囲み、有刺鉄線が張り巡らされている。見張り台は5つあり、各台に重機関銃ブローニングM2が設置してあった。過剰な防衛設備は周りの自然と溶け込むことを拒否しているようだ。それは、城主の生き方そのものを表していた。
 城主──白エル・い男ブランコは、コロンビアで仕入れたコカインの精製を一手に引き受けていた。全盛期である2000年代には、生産は一年で40トンを越え、メキシコの国境を越えて北米まで「成果物」は広がっていた。また、コカインは運び人たちによってアップルパイの中に詰め込まれて輸送されたことから、「ホワイト・アップルパイ」と呼ばれたという。
 その手腕は天職とも言える。しかし、彼は麻薬カルテルの一線から退いた。理由はいくつかあった。そのうちの一つにカルテルの求める水準のコカイン精製が出来なくなったことが挙げられる。中国からの安値で膨大な量のコカインの流入に太刀打ちするには、より品質を高め、顧客を満足させる必要があった。15年前のことだ。その年は、おばあちゃんの家が燃えた年だった。
 おばあちゃんはカルテルのパティシエだった。コカイン精製に貢献し、エル・ブランコに財をもたらした。だからこそ、彼は再びおばあちゃんの手を借りようとした。
 それが、あの日猩々が来た理由だった。
 そしてもう一つだけ、分かったことがあった。
 おばあちゃんがカルテルをやめた日。メキシコで50人いた運び人のうち49人が撲殺された。現場には夥しい血がまき散らされていたのにも関わらず、偽装用のアップルパイには一滴も血が付着していなかったという。
 そこで俺は回想をやめた。
 エル・ブランコの隠れ家。廊下にはスーツ姿の男が立っていた。後ろにまとめた長髪が白くなっている。15年前と変わらない出立ちだ。しかし、顔の右半分は白い仮面が覆っており、否応にもあの日の炎を思い出させる。
「刺客なんて珍しい。ここは時代に乗り遅れた者の憩う場所だよ。外に見張りがひとりもいないから分かっただろうに……」
 男は陰鬱な響きで言う。
「俺には関係ない」
「ふふ、話のわからない奴だね。それより……、通りたいのかい」
 男の背後には扉があった。外側のコンクリート壁と同様、壁は白い。使い込まれた木製の扉がその背景から浮き出しているように見えた。
「まだ通らない」
「ほう」
「お前を殺す。お前の血がついた手で俺は扉を開ける……、猩々」
 俺は右脚を後ろに後退させて半身になる。両腕を前に構え、円をつくる。アップルパイがホール一個分入るほどの円だ。
 猩々は顔を歪める。笑ったのだ。
「あの時の子供か。もうひとりいたはずだが……」
「いまは俺に集中した方がいいぜ。志能アカネの無念、ここで晴らさせてもらう」
 そう言い終わる寸前、猩々の腕が銀光を放った。咄嗟に重心を下げる。頭上数センチ、柳葉形の刃が通過する。同時に猩々は距離を詰めていた。左拳が顔面を狙う。予想以上の速さだった。俺は打撃を避けようとする。
 ──辛くなったら、おばあちゃんのアップルパイを思い出すんだよ
 唐突におばあちゃんの言葉を思い出した。反応が遅れ、左拳を顔に受ける。血の味が口に広がり、後ろに下がる。眼前で猩々の右腕が弧を描いた。
「運がいいな、君は」
 猩々が右手のカランビットナイフを回す。今の左拳はフェイントで、躱した喉元に斬撃を浴びせるつもりだったのだ。
「次はないよ」
 互いに構え合う。猩々の放つ殺気は間合いの酸素を殺しているかのようだった。僅かな動作が命の取捨につながる。足裏を擦り、じりじりと円を描きながら間合いを詰める。
 窓から見える空は、ガンメタルの色味を帯び、中南米の日光をことごとく貪りつくしていた。
 曇天の隙間から、ゆっくりと陽光が差しはじめた。その瞬間、俺は中段に蹴りを放った。パイの縁を模した鋭い足刀。猩々はそれを流し、腱を切ろうとする。その動きに合わせ、猩々の右腕に脚を絡ませた。重心が崩れる。猩々が膝をついた勢いで手からナイフが離れた。俺が脚で締めつけると、腕はみしりと軋んだ。
「ぬうっ」
 どこにそんな力があったのだろうか。猩々は右腕を振り、俺を壁にぶつけた。背中でコンクリートの硬さをもろに受ける。もう一度、逆側のコンクリートにぶつける。頭からぶつかった。一瞬視界がブラックアウトし、絡ませた脚を放してしまう。
 追撃を避けるため、廊下を転がる。革靴の爪先が脇腹にめり込む。肺の空気が押し出された。
 ──全身がパイ生地のスカスカな虚になった風にイメージするんだ
 おばあちゃんの言葉を思い出す。
 全身の力を抜く。咄嗟に頭を上げ、構えなおす。猩々の連撃が素早さを増した。左拳、右拳、右ローキック。死の暴風がまとわりつく。
 円形の構え、アップルパイの円。それはあらゆる暴力を受けきる絶対防御の構え。俺は降りそそぐ打撃群を受け流す。さらに速度は速くなるが、受け続ける。
 アップルパイが焼き上がるまで、オーブンから出さないのと同じだ。腕に擦り切れる痛みを感じながら、俺はその時を待つ。
 猩々の動きが乱れた。
 一気に肉迫する。俺の右肘が猩々の顎を打ち抜いた。ひとつ。左拳が肋を砕く。ふたつ。右の掌底が喉仏を打つ。みっつ。
 ほぼ同時に打った三撃。これは、アップルパイの中身であるリンゴのコンポートから発想を得たものだった。バラバラなリンゴの欠片でありながら、まとまりを持って味覚を刺激する。そこに流れるような連撃を放つヒントがあった。
 猩々が痙攣とともに膝から崩れ落ちる。だが、その双眸に敗北の色はなく、静かに俺を見据えていた。
「なあ、きみ」
 潰れた喉で猩々が言う。
「あかねさん、の、あっぷるぱいは、うまかったかい」
「……」
「はこびやをしてたときも、わたしは、さいごまで、たべられなかったからね。気になったんだ」
「……ばあちゃんのは、いつでも最高の味だった」
「そうか……、いっかいでいいから食べてみたかったな」
 猩々がうつ伏せに倒れる。
 おばあちゃんの家が燃えた日を思い出す。
 あの日以来、探し続けた男を俺は倒した。
 おばあちゃんは笑ってくれるだろうか。強くなったね、と褒めてくれるだろうか。とりとめもない考えが浮かび、俺は嗤った。
 ──ひろし。
 ふと、幻想の炎の中に小柄な黒い影を見つける。
 ──ばあちゃん。
 ──あんたは、とんだ大馬鹿者だねぇ。
 ──え……?
 ──あたしの話を聞いてたのかい?「サクサクのパイ生地はフェイントそのもの。歯応えで満足させたら本命のリンゴを鳩尾にくれてやる」、だよ。
 炎の中から意識が呼び戻される。猩々が倒れ伏す。
 その時だった。猩々の右足が吊り上がり、サソリの針のごとく俺に向いた。銀光が閃く。
 猩々は常人を逸したバランス力と体幹によって爪先で投擲したのだ。
 鳩尾、数センチ手前で俺は柳葉形のナイフを止めた。おばあちゃんを毒で死に至らしめた切先には触れず、柄を握れたのは猩々のわずかな動きのズレに気づけたからだった。
 猩々が左半分の顔で微笑する。
「やるね」
「本命のリンゴ。しかと受け止めた!」
 俺は返す手でナイフを投げる。回転を加えた一閃は、猩々の眉間を貫き、後頭部から脳漿を爆ぜちらす。持ち主を失った仮面がからりと落ちる。扉が朱に染まった。
 猩々の吊り上がった右足が痙攣し、怪物の尾のごとく地に横たわる。宿敵が再び立ち上がることはなかった。
 窓の外は、晴れ間が差し込んでいた。青い空が灰色の雲に亀裂をつくる。
 もうすぐ全てが終わる。その時には空は晴れているだろうか。
 俺の答えは全て扉の向こうにある。

5

 暖炉の薪がパチパチと音を立てている。部屋の調度品は暗い茶色で統一されていた。
 俺は部屋の中央に視線を移す。白いシーツに埋もれるようにして男は眠っていた。枕元まで歩く。白くなった髭は守り人によって整えられ、浅黒い肌にはいくつもの皺が彫り込まれていた。この皺の数だけ死線をくぐり抜けてきたのだろう。
 これが、おばあちゃんを雇っていた男──エル・ブランコ──か。
 事前に見た写真ではでっぷりと太っていたが、今の彼は病に冒され血管が浮き出るほど痩せていた。
 ふと、エル・ブランコが目を覚ます。
「……やはり来たか」
「俺を知っているのか」
「隠遁していても、名くらいは聞く。ミスターシノウ……。私を殺すのかね?」
「愚問だ」
 老人は乾いた笑い声をあげる。
 俺はおもむろに懐から包丁を取り出す。
「これが何か分かるか。あんたが大事にしていたパティシエが最後に俺たちを守るために使った包丁だ」
 包丁は煤にまみれていた。その消えない黒ずみは、おばあちゃんの執念が移ったようだった。
 ひらりと逆手に持つ。
 俺は間髪入れずに、エル・ブランコの胸へ突き立てた。老いた胸骨は、主人を守ることなく刃先を心臓に導いた。
 エル・ブランコの目が見開かれる。ごぼ、と喉が音を立て、血液が口からあふれ出る。
 一代で城を築いた男の最後にしてはあっけなかった。
 そう、あまりにあっけなさすぎた。まるで、こうなることを見越していたように。
 俺は耳を澄ませる。コンクリートを反響する足音。いま自分がいるのが3階だ。足音は廊下の先にある階段を駆け上がっていた。
「退いたとはいえ、私はカルテルの従僕だ。ミスターシノウがここにくる、と教えたら、喜んで始末屋を差し向けてくれたよ」
 エル・ブランコは切れ切れに言った。
 足音は粗く数えて10人以上いた。重さや足取りから考えても、おそらく全員が重武装でいるのは間違いなかった。
「いくら拳が強くても、銃には勝てんのだよ……。憎い老骨と骨を埋める覚悟はできたかね」
 廊下の向こう15メートル。覆面をつけた男たちが現れる。彼らは俺を見つけると、銃口を向け走ってきた。
 その足音に混ざり、大型の蜂のような音が聞こえた。それは次第に近づいてくる。男たちの耳にも届いたのだろう。音の出所である廊下の窓へ振り向いた。
「あいにくだが」
 男たちの間を黒い物体がすり抜ける。すると瞬時に上半身と下半身が分断され、乱れ飛ぶ。反射的に響く銃声。物体は弾丸をはじきながらUターンすると悲鳴が上がった。切り離された頭部が天井にぶつかり、廊下が臓物と血に彩られる。
「それは叶わない」
 血煙から、黒い塊が突進してくる。
 正面からは歪んだ「X」が迫ってくるように見えた。「X」は駆動音を迸らせ、眼前の空中で静止した。
 黒いドローンだった。上下にカーボンブレードが搭載された機体は血しぶきもあいまって殺意の権化のように感じる。
「もう、無茶ばっかり」
 ドローンを浮かせるファンの音に混じり、内蔵スピーカーからメイコの声がした。
「世話をかけるな」
「毎度のことじゃない」
 妹が笑う。
 何回目かの仕事の時、物好きなエンジニアがいた。彼は妻の仇を始末したお礼にと、妹にこのドローンを制作したのだ。メイコが傷つくのは見ていられない。俺は反対したが、彼女は「最後くらいは看取らせて」と聞かなかった。
 妹は俺より強くなった。聴覚による索敵と脳内で地図を構築する能力がずば抜けていた。俺が対象の建築物を説明し、事前に周囲の環境音を聴かせるだけでドローンによる襲撃は精密になった。
 その間にも、窓からは複数ドローンが侵入する。駆動音が離れ、次々と迎撃に向かう。ほどなくして階下からは銃声と叫び声がこだました。
 エル・ブランコが充血した眼で俺を見上げる。呪いを全身に浴びせかけるようなその視線を掌で遮る。俺は柄まで包丁を押し込んだ。
「もたつく暇はないわ。ついてきて」
 俺はドローンの先導で廊下を駆ける。階段の手前には生き残った始末屋がいた。俺を見るなり襲いかかる。円形の構え。ナイフの右フックを捌く。肘を腕と膝で挟み、折る。始末屋が絶叫する。俺は左脚のホルスターからナイフを取り出し、首を掻き切った。
 下階からは銃声と足音が迫ってくる。迷っている暇はない。階段を一段飛ばしで駆け上がる。4階から上に続く階段から光が差す。見上げると屋上に続く扉があった。小さな窓からは青空が広がっている。
 エル・ブランコと猩々を排除した後、屋上で待ち、メイコのドローン四機にハーネスを繋いで俺は脱出する。それが計画だった。
 このまま出れば、無事に戻れる。作戦は成功だ。
 だが、意に反してドアノブにかけた俺の手が止まる。エル・ブランコは死んだ。猩々もまた死んだ。もはや殺すべき人間はいないのに、なぜ。
 ──カルテルが残っているだろう。
 もういないあの人の声が聞こえる。
 ──美味しいアップルパイは最後まで食べてナンボだよ。ひろし。
 屋上にぽつんと小柄な背中を幻視する。あの人の思念が見せたのか、それとも俺の妄執がそうさせたのか。
「早く、兄さん」
「メイコ……、このままで本当におばあちゃんは笑ってくれるかな」
「それは……」
 メイコの声が詰まる。俺は階段を駆け降り、カルテルからの刺客たちと対峙する。狭い通路のためライフルを捨て、大振りのナイフ、ナタを手にした。目の前には8人。下階からも続々と数を増やしている。想像以上の動員数だ。翻せばそれほどカルテルは脅威に感じているのだろう。俺は笑う。
 男が二人同時に斬りかかってくる。
 飛翔音ともに、狭い階段の通路を黒いドローンが通り抜けた。
「分からない……。でも、兄さんが笑わないというなら」
 メイコは言葉を切る。尋常の神経では可能にできない操作に集中するためだ。
 ドローンは一陣の風だった。ひとりの股下にカーボンブレードを走らせる。旋回とひねりを加え、急角度の方向転換を行う。もうひとりの鼻を削いだ。一瞬の隙。俺は顎を掌底で撃ち砕く。
「もう少しだけ付き合ってくれるか」
「ええ。笑う日まで」
 俺たちは再び動き出す。
 刺客が死ぬか、俺が死ぬか。それまでこの城は赤く染まり続ける。おばあちゃんの家が燃える日を忘れるまで、俺は拳を振るい続ける。
 アップルパイを食べ終わるには、まだ遠い。

6

 高円寺駅を南口から出ると、冬空が広がっていた。雲ひとつない青が続く。私はなんの責任もなく「さあ、笑って」と空から言われているように感じた。晴れた空が大嫌いだ。
 ちょうど3週間前、夫が出張する日も同じような空だった。商社に勤める彼はサンクトペテルブルクが行き先だと言った。
「じゃあ、気をつけてね」
「うん。……あ……」
「どうしたの」
 彼は玄関に置いていた新聞紙から広告を抜き、白い裏面にペンを走らせた。
「これ」彼が私に渡したのは店の名前と、ある単語だった。
「3週間して戻らなかったらここに行って品名を言うんだ」
「え……?」
 いつもとは違う翳りのある夫の表情だった。嫌な予感が脳に触れる。
「頼んだよ。じゃあ、行ってくる」
 そう言って彼は扉を閉めた。夫はそれきり連絡が取れなくなった。
 あの時、嫌な予感がした時点で止めていれば、夫を問いただしていれば。後悔の念を青空は嘲笑う。
 駅を出て、南へ歩く。アーケードを抜け、私はルック商店街に入る。色彩鮮やかな雑貨店、古本屋、古着屋が軒を連ねていた。客が入っていないのか、店先で店主が煙草を吸い、隣の店を覗いている。食いつめた大学生が300円セールの古着を漁っている。時間がこの街だけゆっくり流れている気がした。
 私はスマホの地図に従い、商店街の途中、花屋のある角を曲がった。そして、家屋と中華料理店の隙間を抜ける。道とも呼べない隘路だった。私は半身になって通りすぎる。
 視界が開けると、その店はあった。深い緑色を基調としたモダンな佇まいだ。オーニングテントが赤と白のストライプで日陰をつくっていた。メモを見直す。間違いない。ここが「White Velvet」だ。扉の前には〈OPEN〉の看板がぶら下がっている。私ははやる気持ちを抑えて入店する。
 ケーキ屋さんの匂いがした。クリームやバター、パイの焼けた幸せな香りが鼻腔に入る。
「いらっしゃいませ」
 店内から声がした。アップルパイが並ぶガラスケースの後ろから滑るようにして女性が現れた。
「座ったままでごめんなさいね」と、女性が言う。車椅子に座った彼女は全身を黒いドレスに包んでいた。不思議と陰鬱には感じなかった。顔の上半分を覆う黒いベールの下で微笑む口元がそう感じさせるのだろう。
「お探しのものはあるかしら? 今日はシナノゴールドで作ったアップルパイがおすすめよ」
「あの……、『おばあちゃんのとっておき』をひとつ」
 それはメニューにない品名だった。女性の笑みは変わらない。私は少し動揺する。
「申し訳ないのだけれど、お店の看板を〈CLOSE〉にしてくださる?」
「ええ」
 私は言われたとおりに、店頭の看板を裏返す。女性は私を店の奥に案内した。キッチンは通らず、女性が日々暮らすリビングのような場所だった。
「お掛けになって」
 木製のテーブルの前にある一脚に座る。女性は私から見て右側についた。
「アップルパイは好きかい」
 私は声のする後ろを振り返る。先程通った廊下から男が現れた。エプロン姿でも筋肉の引き締まりがわかった。短く刈りそろえられた前髪に整った眉、女性同様、若く見える。左頬には痛々しい傷があった。
 男が私の前にトレイを出す。その上には焼き立てのアップルパイがのった皿と、紅茶があった。
「食べながらの方が話も進むだろう」
 私は黙って頷く。
 男が向かい側に座り、前に乗り出した。
「要件を聞こうか」

【了】


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