見出し画像

BOBCUT〈7〉

〈illustrated by おばあちゃん5歳〉

承前

 あたしは緩慢に目を開けた。なんとか重たい頭を起こす。なんだかすっごく嫌な寝覚めだ。頭ははっきりしないし、身体の動きも効かない。金縛りってこんな感じなのかな。朝ごはんの時に兄さんに教えよう……横から唸り声が聞こえた。父さんだった。父さんの手は椅子に固定されて、猿ぐつわを嵌められてる。てか、ここリビングじゃん。
 あたしは反対を向く。母さんがいた。声を聞くに向こうには多分兄さんがいる。
声をかけようにも、あたしにも猿ぐつわが嵌められていた。母さん、父さん?どうなってるの??
「おはようございます〜。」
 あたしたちが目覚めだすと、キッチンの方から口をもぐつかせながら男が出てきた。匂いを嗅ぐに口に入れてるのはウィンナーのようだ。
「すいません、昨日からなんも食べてなくて」
 明らかにあたしより年上のそいつは中学の後輩みたいな人懐こい笑顔で皿を持ち出して、あたしの前でまた食べはじめた。
 ボブカットを避け、貧乏ゆすりをしながら。しばらく男がウィンナーを頬張るのを眺めていた。
「看板見ましたよ。美容師なんですか?」
 出し抜けに男は尋ねた。
 父さんが首を横に振った。うちは普通のサラリーマン一家だった。
「美容師なんですよね?違いますか?」
 呆気にとられてるあたし達の態度が気に入らなかったのか、貧乏ゆすりが大きくなる。
「ねぇ、聞いてるんだけど」
 男が皿を投げると、父さんの横を掠めて壁で割れた。
 父さんが何度も首を縦に振る。
「だよね?だよね?髪ってあるもんね!」
 男の目が爛々と不気味な輝きを放っていた。
「じゃあさ、みんなどうしてボブカットじゃないの?」
 質問の意味がわからなかった。貧乏ゆすりがまた大きくなった。
「ボブカットは一番人間が魅力的に映るんだよ。ルイーズブルックスの頃から決まってるんだ。あの丸み、前髪の直線……銀幕に合うんです。だから、美容師の家見ると確認しちゃうんですよ。ボブカットかどうか。みんな分かってるのかなぁって」
 今度は涙声になっていた。テーブルから身を乗り出し、あたし達4人を順に見た。男は顔を紅潮させて涙をいっぱいに溜めていた。
「なのに、あなたもあなたもあなたもあなたも……みんな違う。今日は本当に来てよかった。」
 私の目の前で今度は笑顔になっていた。ハッと漏れた息からウィンナーの脂の臭いがした。
「今日はみんなで……ボブカットになりましょう。」
 そう言うと、懐からハサミを取り出し母さんの猿ぐつわを解いた。その途端、母さんは私のや兄さんの名前を叫んだ。ほとんど気が狂ってるようだったけど、男がハサミの柄でこめかみを殴るとすぐに黙った。その後は、ずっと髪を切る音が続いた。じょき…じょきじょきじょき。
 次は父さんだった。父さんの髪はソフトモヒカンだった。
「お父さんは……ちょっと出来そうにないですねぇ」
「娘と息子だけは……」
「ちゃんと伸ばせるように"線"だけ引いちゃいましょうか」
 父の言葉など意に解さないように、男はハサミをカッターを持つような構えに直すと、父さんの額にスーッと引いた。ぱっくりと傷が口を開け、父の顔は血糊に塗れた。男は慣れた手つきで、「もみあげ」も書き始めたところであたしは目を伏せた。音から父が痙攣してること、臭いから父が失禁してることが分かった。そして、足音が通り過ぎると、兄の方が騒がしくなった。
 あたしは耳を塞ぐ代わりに目をギュッとつぶるしかなかった。
「い〜〜〜っい〜〜〜〜っ」
 首を絞められる山羊みたいな声が兄から出てた。しばらくして兄の方が静かになると、ウィンナーの臭いが私の目の前でした。
 あたしは猿ぐつわを外されると、間髪入れず唾を男に吐きかけた。男はにっこり笑うと、銀のハサミが光った。
 じょきじょき
 あたしは男から目を逸さなかった。あたしのこれからつづく人生で一番鮮やかな記憶にするために。
 じょきじょきじょき
 あたしの家族と、尊厳を切り刻んだこの男を。ボブカットを。髪文字家に誓って。髪文字烏羽の名に誓って。
 あたしは、こいつを殺す。
 じょきじょきじょきじょきじょきじょきじょきじょきじょきじょきじょきじょきじょきじょきじょき…………………

 あたしは耳を澄ます。
 雨が窓を打つ音が聞こえる。それから音楽と食器のぶつかる音。
 あたしは薄目を開ける。足元にはチエが眠っている。
 そうだ、あの後逃げて、逃げ延びてここに。  チエには感謝しないと。無い右手であたしはチエの頭を撫でたくなった。
 痛みはもう無かった。だってあたしには怒りがあるから。片腕だけでも街一つ潰せるとびきりのモルヒネが。
「タヌキ寝入りはいらんで、グラス洗ってくれんかね?」
 向こうから女の声が聞こえた。
 とりあえず今はチエを守らないと。
 あたしは左手にフォークを掴んだ。
(つづく)

ここに送られたお金は全て電楽のビスコ代として利用させていただきます。