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仔象寿司

【しげ寿司】が悪いのではない。ただ、希望に手を伸ばす時期がまずかっただけなのだ。
 そう言い聞かせ、板前である重蔵は赤くなったモップを床にかける。白いタイルには真新しい赤い足跡がべっとりとついていた。次の客が来る前に、どうにかしなければならない。重蔵は床に直に洗剤をかけて強く擦った。ぶくぶくと白い泡がわき立つ。
 足跡は巨大だった。歪んだ楕円が狂ったようにいくつも押され、内臓を破ったのか、足跡のひとつは潰れた腸がほつれた糸のようになっていた。
 足跡の主は、板前象のチビシゲだった。
 ほんの5分前、彼はイカを握ったその鼻で客を引き倒し、瞬く間に客の腹を踏みやぶってみせたのだ。
「マストめ……」
 重蔵はひとり毒づく。マスト。オスの象が凶暴化する期間のことを指す。重蔵の経験上、マストは長くてひと月だった。しかし、チビシゲのそれは例年になく伸びており、2ヶ月たった10月でも荒れ狂っていた。
 普段ならマストの時期は店を閉めていた。爆弾の隣で仕事をするほど、重蔵も馬鹿ではない。しかし今年は別だった。
【しげ寿司】は分かれ道に立たされていた。一時は板前象の珍しさもあってかなり稼いだものの、昨今の感染症の影響で客足は絶望的になっていた。ただでさえ莫大なチビシゲの食費は、店の経営を圧迫していた。
 なんとかして一円でも稼がなければならない。重蔵はマストを無視してでも開店し続けた。大丈夫だ。チビシゲは象の中でも小さい部類だ。体長だって2メートルばかりしかない。客にちょっかいを出してもどうってことないはずだ。
「本当にこうなるとは思わねぇだろ……」
 モップをかけ終え、重蔵は死体を干し草箱の下に押し込んだ。なんとか客を入れられる状態になり一息つく。張りつめた神経が少し和らいだ。死体の片付けは、市場の仕入れに似た緊張感だった。チビシゲの色に合わせた、灰色の調理白衣は汗染みだらけになっていた。
「ちったぁ反省しろよ、ばか」
 チビシゲは重蔵の言葉に反応せず、無表情にどくどくと側頭腺から液体を垂れ流すだけだった。
「反抗的なクソ弟子がよ……」
 重蔵が舌打ちすると、
 がらがら
 引き戸が開く音がした。
「へいらっしゃい」
「三人だけど、空いてる?」
 髪を後ろに撫でつけたサラリーマン風の男が尋ねる。
「消毒していただいて、……テーブル空いてますよ」
 重蔵が答えると、同じようなスーツの男がふたり入ってきた。重蔵に声をかけた男よりも若く、ひとりは背の高い角刈り、もうひとりは小柄で陰気そうな男だった。男たちはテーブル席につくと、チビシゲの獣臭さに顔をしかめた。初めてくる客は大抵同じような反応を示すため、重蔵は慣れていた。
「ご注文は?」
「じゃあ……、ランチ握りで。星野くんたちは?」
「自分たちも袴田さんと同じでいいです……」
 星野と呼ばれた角刈りの男は、鼻をつまみながらそう言った。
「ほんとに大丈夫なんすかこの店」
 小声で陰気そうな男が漏らすと、「コラ藤原くん」と嗜められていた。
「はいランチ三つ!」
「パオパオ!」
 オーダーにチビシゲが元気よく応える。マストとはいえ、チビシゲが見せるサービス精神に、少しだけ重蔵の頬はほころんだ。
 チビシゲは蛇口で鼻を洗うと、まな板にヒラメの柵を乗せた。鼻で幅を決め、迷いなく包丁を入れる。他の柵も手際よく身を切りだす。イカの時は、鼻の巻き方を変え、隠し包丁を入れて見せた。
 初めて来た客は、チビシゲのパフォーマンスに歓喜するものだ。だが、三人の反応は薄かった。
「クソ弟子でも、続けりゃあなんとかなるんですわ……」
 チビシゲを褒めることで、重蔵はさりげなく技の凄さを教えようとする。
「いやぁ、すごいです。ただ、私、寿司屋のまな板って見るの初めてで。新鮮な魚ってあんなに血が出るもんなんだなぁ。いやぁ、驚いた」
 袴田はそう言って笑う。
 重蔵は、血まみれのまな板に気づき、凍りついた。
 さっきの死体から噴き出した血が、まな板まで飛んでいた。チビシゲはなんの躊躇いもなく柵を血に濡らしていた。
「でも、たしかイカの血は青いって聞きましたが」
「ああ〜、イカね、イカ、新鮮だと血が赤いんです。学者さんは机でばっか考えるからよくねぇですな」
「へぇー! 海の生き物って不思議だなぁ」
「不思議ですよね。へへ……」
「でも、やっぱり変──」
「ランチ握り出来てるかい!」
「パオパオ!!」
 チビシゲが遮ると、【しげ寿司】の話に移った。
「そもそもどうして象がここに?」
「10年も前かな、マレーシア人に空港までの道を訊かれましてね。遅れちゃいけねぇから、タクシー乗せて『運賃は倍払うから飛ばしとくんな!』って運転手にハッパかけてやったんです。そしたら、次の年ですわ。そのマレーシア人がわざわざウチを訪ねてきましてね。『貴方ノオ陰デ妻ノ出産間ニ合ッタ』ってお礼の印にチビシゲを連れてきたんです」
「奇遇なこともありますね」
「全くですわ。でね、象ってのはまあ賢くて。客がいないときに、手慰みに寿司の握り方を教えたら、ほらあの通り」
 会話の間に、チビシゲはランチ握りを3皿作りあ
 げていた。
「パオパオパオ!!」
「ランチ握り一丁!」
 ルビー色のマグロに、小ぶりのシャリの上でてらてらと輝くイカ握り。いくらは軍艦から溢れるほど豪快に盛りつけられていた。
 袴田以下三人は、その完璧な出来に圧倒されていた。
「すげ……」
 星野が呟く。藤原が骨ばった指でマグロをつまみ上げ、咀嚼する。
「うまい」
 来店時の態度とは打って変わり、ひょいひょいとネタを口に運んでいく。
「うまい、めっちゃうまいれす」
「象すげえ」
「ああ、うまいうまい」
 三人は夢中になって食べていた。
「大将、なんか疑っちゃってすみませんでした……」
 星野が照れくさそうに、重蔵に頭を下げた。自分が作ったわけではないが、つられてはにかんでしまう。
「いやぁ」
 重蔵が言葉を返そうとしたとき、
 どんっ
 と、地面を突き上げる衝撃を感じた。
 その次に重蔵の視界が赤く染まった。
 何が起こったのかまるで分からなかった。
 数秒して、さっきまで美味そうに箸を進めていた星野が机に叩きつけられているのが目に入った。首には灰色の蛇がまとわりつき、何度も杵を突くように机に顔面が激突する。
「パオパオパオー!」
 ごちゅっ、どちっ、ぎちゅっ
 濡れた雑巾をぶつけるような音が不気味に響く。その間、袴田たちは微動だにしなかった。理不尽な暴力を目の前に、思考が止まってしまったようだった。
「チビ! 離さねぇか!」
 重蔵は星野から鼻を剥がそうとするも、相手は象である。還暦すぎの枯枝のような手でどうにかなるものではなかった。チビシゲが、少し首を振ると車に轢き飛ばされたように床を転がり、重蔵は昏倒した。
「パオー!」
 チビシゲの勢いは止まらない。星野をアンダースローでぶん投げると、店内の照明を破壊しながら吹き飛んだ。べきり、と星野の体から嫌な音がすると動かなくなった。
 チビシゲは、次に頭を傾け、藤原に突進した。築50年の店が揺れる。
「う、うわ! あああああ!」
 藤原は縛りが解けたように叫びだした。チビシゲが頭を上げると、藤原の腹に牙が深々と突き刺さっていた。
「袴田さん! 助けて!」
「いやぁ、象の牙ってあんな鋭いんだなぁ」
「いま関係ないでしょう!」
 マストの狂気に当てられてしまったのか、袴田は暢気に笑うだけだった。
 藤原の叫びに興奮し、チビシゲは店の柱に牙をぶつける。藤原から牙を引き抜くと、鼻で足を押さえ込んだ。
 そこから、最初の客と同じ末路を藤原はたどった。

 ◆

 重蔵が目を覚ますと、自分は何か巨大な生き物の体内にいるような気がした。見慣れた木目の天井は赤黒く、白いタイルの床の上には異臭を放つ肉がすり潰されていた。店のカウンターを見る。血飛沫が飛び、サーモンの柵も臓物と変わらない見た目になっていた。
 そして、店の玄関前にはチビシゲがいた。チビシゲは、口をしきりにもごもごと動かしてスーツ姿の人間を飲み込もうとしていた。
 全てが悪夢のようだった。
 その時、電話が鳴った。
 重蔵は、重い体を引きずり受話器を耳に当てる。
「はい、しげ寿司」
「あっ! 繋がった!」
 受話器越しの声は、若い女のものだった。女は続ける。
「すみません。ロケ中なんですけど、いま、この町で外食できるところを探していまして……、しげ寿司さんのお寿司がとーっても美味しいって聞いたんですけど、これから伺えないでしょうか……?」
 重蔵は時計を見る。時刻は午後2時すぎを指していた。
「今ちょうど、混んでましてね……。客の空いてる3時ごろなら大丈夫ですわ」
「ありがとうございます! じゃあその時間にまた! 失礼します!」
 そう言って、電話は切れた。
 重蔵は嘆息する。慣れた手つきでモップを用具入れから引き出すと、床にかけ始めた。
「クソマストがよ……」
 チビシゲは短く唸ると、人間を飲み下してしまっていた。側頭腺からは相変わらず、黒い液体を垂れ流していたままだった。
【了】


こちらは以前カクヨムて行われた「へびふくろう座文学賞」に応募したものです。

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