平成八年生肉之年--03
承前
神立悟
赤い血潮が流れ出るたびに思う。おれの身体には血の代わりにガソリンがぶち込まれている。
神立悟が最初にそう思ったのは、小学四年生の給食の時間だった。担任の教師が悟の飯を大盛りにした。
ふかふかの白飯よりも先に、担任の視線に目が行った。耐えられない感情が身を灼く。
悟は言葉より先に、教師の鼻に掌底を打ち込んでいた。
悟の家は父と暮らしていた。周りの態度から滲み出る憐みには人一倍敏感だった。どんなに人格者ぶっていても視線、振る舞いは悟の前では無意味だった。大盛りにする教師からは「ろくに飯も食えてないんだろう」という嘲りが透けていた。
担任に着いた頃から感じていた違和感は、やがて燃え上がる炎に姿を変えていた。
無様に転げる目の前の男に、怒りが湧き上がる。うずくまる教師の背中を殴りつけようとした時だった。誰かが悟の腕を止めた。白くて長い指はピアニストを思わせる綺麗な手だった。
幼馴染の高城陽が立っていた。
「なんだよ」
陽が悟に笑いかける。
ためらいなく陽は沸騰寸前の食缶を持ち上げた。悟が声をかける前に、中身を教師の背中にぶちまけていた。教師の絶叫が教室内に響き渡った。
「この方がいい」
泣き叫ぶ声で教室がパニック状態になった。その中で、陽は笑っていた。その笑顔は、白い紙にひとつ染みた黒いインクを思わせる。
近づいてはいけない。その思いに反して、行き場のなくなった悟の怒りは陽に向いた。
「テメェ……」
不器用に振った右腕を陽は避けなかった。
頬を打った感触が手に残る。
「悟、もっと面白いことをやろう」
陽は切れた唇も構わず笑っていた。
なのにお前はどうして……。
記憶が風の音とともに過ぎ去る。悟は単車の速度を上げる。白い特攻服がたなびく。車同士のわずかな隙間をすり抜けると、背後から怒号が聞こえた。
それも束の間だった。消音器を引き抜いたマフラーの爆音が耳を聾する。
悟がミラーを見る。黒い族車が5騎追ってきていた。搭載されたカウルには炎に包まれる鬼が描かれている。街を縄張りにする暴走族【羅刹】のメンバーだ。
「待てや!」
「ぶち殺すぞ!」
爆音の中、男たちが声をあげる。
悟は頃合いを見計らい、さらに加速させる。カウルが風を受け流し、真昼の大通りを突っ切る。羅刹のメンバーが追いすがる。反対車線に出ると、一台が急ブレーキをかけて離脱した。
「いかれてんのかテメェ!」
大通りの突き当たり、公園が目の前に迫る。まだだ。歩道が鼻先まで近づく。まだだ。石造の門が視界いっぱいになる。
悟は一気にブレーキをかける。ぎゃりぎゃりとタイヤ痕を焼きつかせ、急カーブをした。白い特攻服の裾が街灯柱に擦れる。
「ぎゃああっ」
背後で単車が大破する音と叫び声がした。
悟はミラーに目をやった。
負けじと曲がり切る羅刹たちがいた。
追いかける3騎の後ろから、続々と増援がやってきた。黒い単車は10騎に増えた。白昼堂々の疾走決闘を縄張りでやられて羅刹が黙っているはずがなかった。
大通りを離れて川沿いを走る。悟は土手まで下り、単車を止めた。エンジン音が威圧するように迫る。すぐさま羅刹が追いついた。
「俺ら相手にやってくれるじゃん」
丸刈りの学ラン男が笑う。
「阿島さん、やっちゃっていいスよね」
カラスマスクの男がサングラス越しに悟を睨め付ける。丸刈りの男、阿島が制する。
「お前達がトロい走りしてっから、後ろからぶち抜いただけだろうが」
悟の言葉に羅刹たちが殺気立つ。
「三雷頭のカシラはどこなの?」
阿島が問いかける。一大勢力の羅刹と対立するチームがいた。それが悟のいる三雷頭だった。
「陽はいねぇよ」
「ナメてんのかテメェ!」
カラスマスクの男が悟に迫る。頭をかち割ろうと木刀を振りかぶった。
鈍い打撃音の後、カラスマスクの男が、くの字に折れ曲がり、倒れた。悟の足が鳩尾にめり込んだのだ。
それが合図となった。
羅刹の中には内心穏便に済ませようとしていた者もいた。数の優勢で思考が止まっていた者もいた。悟の一撃はそんな考えを破壊した。
悟が呆気に取られた男のサングラスをかち割る。殺らなければこちらが殺られる。押し流されるようにして乱闘が始まった。一人が悟の特攻服を掴んだ。悟は手首を捻り、地面に投げ落とす。同士討ちを恐れ、男たちは悟との距離を離した。
「来いよ」
阿島と視線がぶつかる。腰を落とし、阿島が体勢を低くする。
「いくよ」
阿島が両腕を開き、悟の腰に這い寄る。
掴んで押し倒すつもりか。悟はそれを許さない。一足踏み込んで阿島よりさらに腰を落とす。右拳を地面すれすれで振り抜く。阿島の顎を捉えた。がきっと顎が音を立て、身体が数センチ浮いた。口から血の混じった唾液が飛び散った。阿島の両眼がぐるっと白目を剥く。
「……ッ!」
悟は目を見張る。古びた機械が再起動するように阿島の眼球が動いた。悟の視線を捉え、特攻服の肩を掴んだ。
「俺が羅刹で、どう呼ばれてるか知ってるか」
そう言って阿島は口を大きく開く。みしり、と肩の骨が悲鳴を上げる。
「生贄の阿島だよ」
悟は一歩も動けなかった。万力じみた両腕ががっしりと悟を掴んで離さなかった。
「奥歯が捧げられちゃったよ」
「お前……」
「奉仕が一番。舎弟に美味いところは持ってもらわないと」
背後に羅刹が三人回り込んでいた。一人が持つバタフライナイフを閃かせる。陽光が刃先に光を宿した。
右脇腹に焼けるような痛みが走った。続いてもう一人が反対の脇腹を殴る。急所をずらそうとするが無駄だった。
悟が阿島の顔面に頭突きをいれる。唇が切れ、出血量が増す。さらに力が強まり、阿島の拘束は鉄の要塞じみていた。
「やれ」
阿島が血まみれの口で命じた。
背後にいた最後の一人は自転車のチェーンを拳に巻いていた。体重を乗せた一撃が、悟の後頭部にまともに入った。
川の反射光が何重にもぶれる。悟がたたらを踏んだ。それでもなお、頭を振り上げる。阿島が片眉を上げる。
「やるね」
後方から羅刹が容赦なく一撃を悟に見舞う。頭が爆発したような痛みだった。幼い頃、滑り台から落ちたときを唐突に思い出す。陽が手を差し伸べる。悟はその手を振り払う。
助けはいらない……。
新たにエンジン音が轟いた。阿島の後方、道の向こう側からバイクが続々とやってくる。掠れる視界に紫色の人影が映った。
紫の特攻服を着た高城陽だった。陽はバイクを降りて跳躍した。幅跳び選手のような綺麗なフォームだった。狙い澄ましたように、陽は阿島の頭上に落ちた。
「三雷頭のカシラ……」
腕で受け止め、阿島が笑う。粘ついた血が糸を引く。陽はふわりと地面に降りた。
「大丈夫か」
陽が悟を見る。憐みのない真っ直ぐな目だった。穏やかな表情に特攻服は似合わない。昔と変わらなかった。無様な悟を見て皮肉や罵倒を浴びせるなら理解できた。ただ陽は心の底から心配していた。
この態度だ。こちらのガードを解くような無邪気さが三雷頭の仲間の心をとらえ、率いてきた。
それなのに……。
三雷頭を頼むぞ。
何度も忘れようとしていた陽の言葉が甦る。
悟の中のガソリンが爆発した。怒りが全身を駆け巡る。才能を持ち合わせながら、三雷頭を手放そうとする陽の意図がわからなかった。全身が焦げ付くような痛みが走った。悟は歯を食いしばる。
阿島が悟の異変に気づいた時には遅かった。
不意に悟は腕の力を抜いた。絡まった阿島の腕が、力の入れ所をなくす。抵抗するほど拘束されるなら抵抗しなければよい。するり、と腕を抜いて阿島の脇腹を殴りつけた。肋骨がばきりと音を立てた。
続けて悟は阿島の喉仏に掌底を打ち込んだ。掌で固いものが潰れる感覚がした。掃除されていない排水溝のような音が阿島の喉から出た。
喉を押さえ、阿島の頭が下がる。
あと一撃。悟が拳をぶつけようとした時、視界が幾重にもぶれた。地面が迫ってくる。脇腹から生温かいものが流れる。羅刹から受けたバタフライナイフの傷が開いていたのだ。
「へへ……」
阿島は好機を逃さなかった。羅刹の数の優勢は陽の登場で崩れていた。よろとよろと後退りし、バイクへ走る。
「またな」
「おい、まだ終わってねぇぞ……」
悟は追いかけようとするが、足が動かない。沼の中に沈んでいくようだった。無理矢理足を動かそうとする。
阿島がバイクにまたがる。
「またやろうか……」
余裕すらある笑みだった。阿島がエンジンをかける。だが、一向に発進できないでいた。
「なんだぁ……」
阿島が自分のバイクを不思議そうに見る。タイヤが平たくなっていた。悟の横を紫の風が走り抜ける。陽が阿島に駆け寄ると、鈍い音が河原にこだました。
阿島の頭が大きく揺れた。陽は自転車のチェーンを奪い、手に巻いていた。
陽……。
視界がぼやけていく。全身の力が抜け、悟は地面に突っ伏した。
「悟さん!」
三雷頭の仲間が悟に肩を貸す。すでに他の羅刹は蹴散らされたようだった。
鈍い音が続いた。意識が薄れていく間、悟は陽を見続けていた。阿島を殴る音がフェードアウトしていき、記憶の中の声が大きくなった。
「三雷頭を頼む」
「なんで俺に」
「お前だからだよ」
「俺はお前ほど優しくもなければ人の気持ちも分からない……。三雷頭は陽がいないとまとまらねぇよ」
陽が笑う。笑うな。こんな時まで。
「俺のやり方じゃなくていい。お前がやりたいようにまとめてくれ。俺はここを出る」
「俺はここを出る」とリフレインされる。声は遠くなっていく。「無理だよ」と悟は言いたかった。悟の三雷頭は陽がいるから成り立っていた。陽が頭を張っているから悟は暴れられた。二人で補い合ってたからここまで来れた。それは違うのか?
お前は何を考えてるんだ、陽?
次に目が覚めた時、悟はベッドの上にいた。暗い室内に飾られた古いバンドのポスター。自分の部屋だった。時計を見る。夜の8時を刺していた。起き上がると、脇腹が痛み、顔を顰める。脇腹に触れた。新しい包帯が巻かれていた。次に感じたのは喉の渇きだった。ベッドから出た。
階下から物音が聞こえた。悟が階段を降りる。ごんごん、と槌を叩く音が大きくなる。廊下を通り、仕事場を覗く。大柄な背中を丸めて父が木材を切り分けている。何か組み立てていた。悟の父は家具職人だった。仕事場には、塗装前の机や椅子が置かれていた。
「もういいのか」
父が振り返り、悟に言った。悟は少しも音を立てていない。なのに、父はいつも気づく。後ろに目がついているように思った。
「大丈夫だ」
「陽くんたちがお前を運んできたぞ」
「陽が」
「喧嘩、負けたんだな」
悟の心に針が刺さる。最後に反撃したとはいえ、陽に助けられたのでは勝ったとは言えない。
「負けてねぇよ」
悟の虚勢を父は鼻で笑った。父はあまり多くを話さない。喧嘩についても怒ることはなかった。
「いつまでも……陽くんにおんぶに抱っこじゃ情けないな」
悟は舌打ちをして台所に向かった。陽の話を父親とする気はなかった。蛇口の水を掬う。喉が冷たい水を飲み込んでいく。邪魔な思考を紛らわせるように何度も飲む。唇の傷が痛むのも構わないでいると、気管に入ってむせてしまった。
「陽……」
無意識に言葉が出る。辞めるんじゃなかったのか。助けなんていらなかった。言いたいことが山のようにあった。
悟は上着を取り、サンダルをつっかけて外に出た。
陽の家は近くの公園の近くだった。潰れたタバコ屋の前を通り過ぎればすぐ陽の家だった。電気が消えている。嫌な予感がした。扉を叩くのを躊躇した。
叩いて返事がなかったら俺はどうなるんだ。陽がいなくなった事実を本当に受け入れなければならなくなってしまう。消えてなくなった陽を俺は許せるのか。身体のガソリンが沸き立つのを今か今かと待ち侘びているような気がした。
「悟」
振り返ると陽がいた。特攻服ではない襟付きのシャツ姿は久しぶりだった。
「傷が開くぞ」
「そんなことはどうでもいい。陽……。お前本当に三雷頭を抜けるのか」
陽が曖昧に笑う。どっちか判断をつけてしまうのが怖い。
「ちょっと面貸せ」
陽はそう言ってガレージから単車を引っ張ってきた。悟を後ろに乗せて走り出す。
夜の風が冷たい。風の音がいつもより静かに感じてしまう。自分の思っている言葉が聞こえてしまいそうで嫌になる。
「悟。お前が先生ぶん殴ったとき覚えてるか」
陽が言った。
「お前が食缶ぶちまけた時だろ」
「自転車で一緒に家まで帰ったよな」
「ああ。散々だった。怒られたし、陽の自転車がチェーンが外れた」
陽が楽しげに笑う。
「結局歩いて帰った」
「そうだな」
「悟、ありがとう」
陽が悟をちらりと見た。
「お前がダチでよかったよ。悟。お前は自分が思っている以上にやれるやつだ」
悟は陽がただ感謝の念を述べているようには思えなかった。裏付けるように悟と目を合わせようとしない。もっとどこか遠くを見ているようだった。
「陽……お前何言って」
「今の俺じゃお前には敵わない。俺は俺のやり方で天下を取る」
「俺はお前と走れればそれでいい」
陽は微笑んだ。
「今から考えてくれ。お前の怒りはこの街をひっくり返せる」
単車は夜の車道を走り続ける。ショッピングモールが照らす光の中、陽は加速する。
次の日、高城陽は消えた。去る言葉は何もない。彼は跡形もなくなっていた。行方を知るものは誰もいなかった。
悟は夕方、三雷頭を集めた。単車を駆り、廃墟を目指して走る。
山中にある温泉リゾートの廃墟は羅刹の溜まり場となっていた。
悟のガソリンは爆発させる先を求めていた。
(続く)
ここに送られたお金は全て電楽のビスコ代として利用させていただきます。