見出し画像

平成八年生肉之年--02

承前

平岡辰雄

 錆びた鉄の階段が霧で濡れている。平岡辰雄刑事が一段ずつ上がる。60を超え、段差がこれほど怖いものになるとは思わなかった。年齢に勝てない自分を忌まわしく思う。革靴の踵でカンカンと階段が鳴った。二階ではアパートの扉が開かれ、捜査員たちがひっきりなしに出入りしている。ちょうど出てきた若い捜査員に声をかけた。
「鉢村」
「平さん」
 鉢村と呼ばれた捜査員が平岡に駆け寄る。鉢村要巡査は平岡の元で二年になる。すらりとした体つきで色の白さは歌舞伎役者を思わせた。
「どうなってる」
「ひどいもんですよ」
 鉢村を先頭に平岡が部屋に入る。換気がされておらず、腐臭が鼻をつく。玄関に置いてある水槽からしていた。黒ずみ、何が入っていたのか分からない。靴箱の周りにはリモコンや絵本が落ちている。なぜかは考えても埒があかないと経験で分かっている。壊れた家とはあべこべになっているものだった。
 炬燵の敷かれた居間を通り、ベランダに案内される。段ボールといつのものか分からないカップラーメンの残骸が残っていた。
「この辺りか」
 平岡は段ボールの凹んだ箇所を指差す。
「ええ。姉妹が抱き合うように眠ってました。ギリギリでしたよ」
 そう言って鉢村は顔を顰める。
「親はどうした」
「先に移送されました。母親はずっと爪を食ってて、父親は母親を罵倒し続けて何をやってるのか分かりませんよ……」
 年が変わってから虐待の現場に当たることが多かった。子どもを保護する現場を見るのはいくら場慣れしてるとはいえ気が滅入った。
「一体世の中はどうなっちまったんだかね」
「平さん。タバコは外で吸ってください」
「外じゃねぇか。ベランダは喫煙者のために作られてるんだよ」
 平岡はベランダにもたれかかり、煙を吐く。
 鉢村が視界の外で動く。気がつくと、人差し指と中指に挟まれたピースが消えていた。
「現場保存は基本ですから」
 知らぬ間に鉢村の指にタバコが収まっていた。平岡の老眼では到底追えない速度だった。
「これだからボクシング経験者は。嫌んなっちまうね」
 鉢村は指でタバコをくるりと回し、ドアを指す。
「吸うならここ以外で」
「真面目にやるよ」
 平岡は部屋を見回す。物が多い。潰れたペットボトルが床に転がり、飲みかけの発泡酒が炬燵布団を湿らせていた。子どもが育つどころか人の心が死んでいくような場所だった。虐待は近隣住民の通報頼みになることが多い。発見が遅れてしまえば容易く幼い命は消えてしまう。自分の至らなさとは和解したつもりだったが、現場を見るたびに平岡は歯噛みした。
「平さん」
 鉢村が呼ぶ。壁に絵が剥がれかけてぶら下がっている。それはクレヨンで描かれており、黒色の影と赤色の円が描かれていた。平岡がそばで覗き込む。
「これ、なんですかね」
「父親か母親じゃねえかな」
「人には見えませんけど」 
「子どもってのはなんだか分からない物の見方をしてる時があるんだよ」
 そう言いつつ、平岡は自分が目を逸らしていることに気づいた。目を合わせないようにしているのだ。
 赤い円がじっとこちらを見ているような気がした。
 一通りの現場検証が終わると、巡査が駆け寄ってきた。
「殺人です」
「おいおい……」
 平岡は首を振った。信じられなかった。殺人はこの街では皆無だった。40年近く勤続してこのようなことは初めてだった。
「場所は」
 鉢村が急かすように言った。
「蟻ヶ崎です」 
「行くぞ鉢村」
「はい」
 平岡は階段を降りる。停めてあった車の助手席に乗り込み、鉢村が発進させる。
「一体今日はどうなってるんですか」
「俺もわかんねぇよ」
 平岡はピースに火をつける。車の進行方向をじっとにらんだ。胸の奥に不安の炎がくすぶっていた。
 蟻ヶ崎には朱川中学校がある。そこを囲むように住宅が並んでいる地域だ。坂が多く、通勤の時間は渋滞しやすい。大きな道をよけ、鉢村は迂回しながら向かう。
「うおっ!」
 鉢村が急ブレーキをかける。けたたましいマフラーの音の後、クラクションが鳴った。目の前に白いバイクが突然現れた。特攻服を着ている男がふたり乗っていた。いわゆる暴走族だ。追うようにして黒い族車が対向車線を突き抜ける。
「危ないだろ!」
 鉢村が窓から叫ぶ。バイクは気にも止めず走り去る。それでも叫ぼうとする鉢村を平岡はなだめる。
「今は行こう」
 鉢村が我にかえり、ハンドルを切った。
 現場近くに車を停める。すでに野次馬がたかっていた。
 二階建ての屋敷だった。表札には「牛崎」とある。
「ああ、平岡さん。こちらです」
 濁声の男、先に着いた金田巡査が平岡たちを現場に通す。規制線をくぐり、平岡たちは中に入る。
 有田焼の大皿が飾られた玄関を抜け、居間に向かう。居間には誰もいない。庭に向かう縁側の窓が開いていた。平岡は窓の外を見る。死体が庭に転がっていた。
 鉢村がうめいた。
 平岡ははじめ見た時に死体と判別できなかった。人にしては赤すぎると思ったのだ。
「皮を剥がされてるのか」
 頭が赤いてるてる坊主のようだった。瞼を失った眼球が視線を失っている。痩せた歯茎から銀歯が見えた。
「被害者は」
「この家に住んでいた牛崎千代子さんです。ボランティアの同僚が千代子さんが来ないのを心配して見に行ったら見つけたようで……」
 横で金田がハンカチを口に寄せて言った。
「一目じゃ性別も分からないですね……」
「鼻も綺麗に削がれてるな」
 平岡は冷静に死体を観察する。パジャマの鳩尾部分が赤黒く濡れていた。
「これが致命傷か」
「ええ。どうやらナイフで一発だそうで」
「技術があるな」
「それならどうして皮まで剥ぐ必要が」
 鉢村の疑問は当然だ。平岡はなんとも言えなかった。代わりに金田に訊いた。
「金銭は盗られてたか」
「いいえ。ご覧の通りです。部屋は荒らされず、一円ぽっちも盗まれてませんでした」
「指紋や頭髪は何かありましたか」
 鉢村の問いに金田は首を振る。
「何ひとつ。鑑識が言うには、家に死体だけポンと湧き出たみたいだそうで」
「近隣の目撃情報は」
「一件、気になることがありまして。夜の11時頃に走り去っていく黒い車を見たそうです」
「鉢村、これは時間がかかるぞ……」
 血痕一つも残さずに死体だけを犯人は残していったのだ。明らかに人を消すことに慣れている。長野の住宅街で起こるには異様な犯罪としかいえなかった。
「平さん……俺は捕まえますよ」
 鉢村の白い額に血管が浮いていた。鉢村は表情から感情を読み取りづらいが、怒りの時は血管がはっきりと感情を示している。昔から変わらない鉢村の性質だった。
「まずは見て回ろう」
 鉢村は黙って頷く。怒りを抑えようとしていた。
「上にも何かあるかもしれない」
「そうですね」
 平岡は鉢村と手分けして捜査することにした。一階は平岡が見て、二階は金田と鉢村の担当になった。家の中を捜索する。
 一階には居間の他に寝室があった。平岡は襖を開ける。和室をアレンジしてベッドが置いてあった。シーツは起きた時のままになっている。ベッドの横に小さな机と引き出しがある。机の上には写真立てが飾ってあった。平岡はそれを手に取る。「朱川中学校卒業式」の横断幕とともに女性が写っていた。生徒たちの中央で、花束を手に笑顔で写る姿は、庭の死体とはあまりにもかけ離れている。
 次に平岡は引き出しを開けた。真新しい国語の教科書が入っていた。一年生から三年生までのものが揃っている。教壇を離れても教育熱心なのが伺えた。一番下には生徒からの寄せ書きが入っていた。「校長先生ありがとう」、「また遊んでね」など子どもの字で牛崎千代子への言葉が並んでいた。
 平岡の目には殺されるような理由はないように思えた。
 窓際にはカバンと上着がかけられていた。外出する際に、普段使うものがまとめられているようだった。
 革製のカバンを持ち上げる。重さは軽い。中にはスケジュール帳だけ入っていた。ページをざっとめくる。角ばった字で日々の予定が 綴られていた。平岡は牛崎が最近会った人物の名前を書きとる。事件直前のページを開いた。一日のスケジュールに「天馬岳登山」とあった。三日前に友人二人と登山に行ったようだ。
 この友人たちと揉めたのか。それにしても皮を剥ぐまでに至る怒りを引き起こすとは思えない。
 平岡はその後も寝室をくまなく探し回ったが目ぼしいものは見つからなかった。
「そっちはどうだ」
 玄関横の階段から、二階に向けて声をかけた。
 金田と鉢村が降りてきた。鉢村の腕にはアルバムが抱えられていた。
「娘さんが一人いたみたいですが、今は疎遠みたいですね」
 鉢村がアルバムを開く。七五三の写真が貼ってあった。小学校の入学式や旅行の写真が続く。娘が高校生になるあたりでページは途切れていた。
「旦那さんは」
「若い頃に別れたようです。酒を飲むと暴れ出す人で苦労したそうで」
「じゃあ、長いこと牛崎さんはこの家にひとりで住んでたのか」
「この大きい家で……」
 鉢村と平岡は家の中をぐるりと見回す。ひとりで管理するには大変そうだ。特に牛崎ほどの歳だと尚更だろう。
 平岡はもう一度アルバムを見る。大きなリュックを横に置いてピースする少女の写真があった。山登りに娘と牛崎が行った時だろう。登山道を示す看板が写っている。平岡は違和感を感じた。牛崎千代子のスケジュール帳を開き、写真と比べた。登山道の看板には「天馬岳」とある。
「亡くなる前に登った山だな」
「牛崎さんは何度もここにきた経験があるんですかね」
「おそらくそうだろう」
「天馬岳って何か観光地でしたっけ……」
  鉢村が首を傾げる。
「何もなかった気がするがな」
「天馬岳は割と難しい登山コースですよ」
 金田が答えた。
「金田さんは何でも知ってるな」
「いえ、子どもが中学三年の時に登ったんですよ」
 県内では課外学習に登山がある中学校は珍しくなかった。牛崎家の場所からして朱川中学校にも登山があるのではないか。平岡はふと思った。
「降りる時、かなり傾斜がキツくて死にそうだったって泣いてましたよ」
「朱中も課外学習で登山があるのか」
 昔を懐かしむように話す金田に、平岡が尋ねる。
「ええ。ありましたよ」
「朱中と何か関係があるかもしれんな」
 鉢村がメモを取った。
「亡くなる前の牛崎さんの様子も気にかかりますね」
「それは友人に話を聞いてみるしかない」
 牛崎千代子の動向と登っていた山について探ることで話はついた。平岡たちは屋敷を出た。
「聞き込みをしたのはどの家です」
 金田が指で示す。
「あっちは」
 鉢村が金田と別の家を指す。
「まだですね」
「黒い車の目撃情報がまだあるかもしれない。最後に聞いていきませんか」
 鉢村の捜査は普段以上に熱心になっていた。子どもの保護と無残な赤い頭。鉢村の性格からすれば怒りを燃やさずにはいられないのだろう。
 鉢村を先頭に、隣の家を訪ねた。インターホンを鳴らすと扉の隙間から老人が顔を覗かせた。鉢村を見て老人は舌打ちをする。
「悪いが忙しいんだ」
「黒い車を見ませんでしたか」
 鉢村が詰め寄る。
「私に迷惑をかけたことより、自分の用が先かね。君より何歳上か分かっているのかい。礼儀を知ってから出直してきなさい」
 男が扉を閉めようとするのを、鉢村が足を挟んで止めた。
「な……」
「人が死んでいるんです」
 鉢村が纏うプレッシャーは殺気とも取れるほどだった。
「鉢村」
「……23時ごろだよ」
 男が口を開いた。
「その時は何をしていましたか」
「書類の整理だよ。叔父が突然亡くなってね。他に家族もいないってんで私が始末してたんだ。そしたらエンジン音が牛崎さん家から聞こえてきた」
「車のナンバーは見ませんでしたか」
 男は首を振る。
「ここら辺は街灯がほとんどない。見たのも一瞬だ」
「牛崎さんの家でトラブルは聞きませんでしたか」
「前にゴミ捨てで揉めてたくらいだね」
 その後もいくつか質問したが、分かったのは牛崎千代子に憎まれる要素は何もないということだけだった。
 平岡たちは金田と別れ、車に乗り込んだ。
 一度、警察署に戻るつもりだった。蟻ヶ崎を離れて坂を下る。天気が崩れてきた。フロントガラスに雨粒が落ちる。ワイパーが拭う規則的な音が車内に響く。
「今回の事件をどう思いますか」
 鉢村の問いに平岡は沈黙する。初めて遭遇する異様な事件だった。無惨さに加えて周到さが伺える。何か不吉な影が街を覆いはじめていた。
「……なんとも言えん。ただ、犯人は手口を変えてくるだろうよ」
「どうしてです」
「殺し方が凝りすぎてる。あれじゃあ、もう一度やるにしたって足がつく」
 ハンドルを握る後輩の横顔を眺める。顔に緊張と焦りが張りついていた。
「まずは黒い車を追わないと……」
「少しは気を抜け。最初からそれじゃあ身が持たんぞ。お前がへばったら誰が運転するんだ 
「平さんも運転しないと、免許取り上げられますよ」
「そこまでボケてないよ」
 警察署に着く頃には雨は本降りになっていた。
 次の日、平岡たちの予想は裏切られた。牛崎千代子の友人たちは同様の手口で赤い頭となって発見された。

(続く)

ここに送られたお金は全て電楽のビスコ代として利用させていただきます。