見出し画像

師弟愛を感じる助広の作

助広(1637~1682年)と言えば大阪新刀を代表する名工で、その弟子には助直がいます。
助直(1639~没不明、作は1684年の物が最晩年)は近江国高木村の生まれとされ、後に大阪に出て津田越前守助広門に学び妹婿になったと伝えられており、津田の姓を銘に冠しています。
助直も師の濤瀾乱と遜色ないほどに上手く焼き、名工と言われています。
技術の高さに加え助広と僅か2歳差という事もあってか、助広の急死後はその後継者として大阪鎗屋町に来住して一門を統括し繁栄を図りました。
以下は助直の特別重要刀剣指定品です。

画像2

(画像転載元:飯田高遠堂 津田近江守助直 元禄六歳二月日


今回師弟愛を感じる面白い作と感じた助広の作がこちら

画像1

(引用元:「百剣百話 著:飯田一雄 P112」より)

なんと助広本人では無くて、助直が、助広の銘を切っています
そして横に添銘として助直の銘を切っています。
つまりこの銘を切ったのは助直だ、と書いてあります。
「百剣百話」に掲載されている刀ですが、それを読むと「師の助広が存命中に鍛造したが、銘を切らずに世を去った。助直が銘を切れば助直の作として世に出したものである。師を尊ぶ誠に美しい心境であり、師弟の人情をまのあたりにするようで」と書いてあります。

天和2年というと、1682年の作で助広の没年と重なります。
助直の天和2年2月の作を見ると、まだ「高木住」となっています。
つまりまだ助広の住む大阪に来ていません。

画像5

(画像転載元:つるぎの屋 近江守高木住助直 天和二年二月

銘を切る直前だったか、素延べした段階か分かりませんが、助広はとにかくこの1振りを完成させるあとちょっとの所で命が絶えたのかもしれません。(一説には食中毒による急死とされている)
そして助広の訃報を聞いた助直が大阪に来たところ本刀が鍛冶場に置いてあり天和2年8月に添銘を入れて完成させたのかもしれない。
助広没後に一門を率いたのは助直と本ではよく見ますが、助広の最後の一振りに銘を入れる事が出来た位に一門の中でも助直は信頼のおけた存在だった事が伺えます。

この作から助直が師である助広を尊び、何とか最後の1振りを完成させてあげようという気迫のようなものも伝わってくる気がします。
現在、天和元年十二月日の年紀が助広の最晩年の作と言われていますが、助広の本当の最晩年作は本刀なのかもしれませんね。

そして時間は流れ、助直の最晩年作(先に挙げた特重の助直)の解説を読むと、「師の助広と区別し難いほどの上出来のもので」とあります。
助直はその後も師を尊び、師の作風を目指す事で最後には師の作(濤瀾乱)に追いついたというドラマのような展開が感じられ、助直という人物の人柄が作から垣間見えて一段と好きになりました。


今回も読んで下さりありがとうございました!
面白かった方はハートマークを押してもらえると嬉しいです^^
記事更新の励みになります。
それでは皆様良き御刀ライフを~!

画像3


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?