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「正宗十哲」は幕末に作られたワード

正宗十哲という言葉を聞いた事がある人も多いのではないでしょうか。
正宗の高弟10人のことを指します。
いずれも名工揃いで存在したことはまず間違いありませんが、「正宗十哲」というものは存在していないと考えられています。

というのも正宗十哲という言葉は福永酔剣著の「日本刀鑑定必携1996年版」によると幕末に入ってから出来たものだそうです。
日本刀大百科事典を見ると、1862年の「刀剣正纂」という書物に初めて登場するようで、ここにも「後人ノ憶説ナレバ、今取ラズ」と書かれており、正宗十哲という言葉が後から作られたものであると分かります。

実際のところ作刀時代もバラバラで以下10名が全員正宗の直弟子とは限りません。
ただ作風が似ているのは確かで正宗の刀を参考にするなど影響を受けている可能性は充分あると言えそうです。

正宗十哲
貞宗     :正宗の直弟子と言われている
長谷部国重  :父が大和千手院派、後に鎌倉へ移住
来国次    :来国俊に師事、その後鎌倉へ移住
志津三郎兼氏 :大和手掻派。その後志津に移住
金重     :関鍛冶の祖。元重の子。
郷義弘    :吉光、正宗と共に天下三作
則重     :新藤五国光に師事とも郷の師とも推測
兼光     :景光の子
長義     :光忠の子、真長が祖父
左文字    :本名は左安吉、大左とも呼ばれる

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(写真:兼光)

①正宗十哲を五畿七道で分けてみる

兼氏などは美濃から相州そして大和へ、長谷部国重は大和から相州へ、など移動している刀工も複数いますが、大体以下の位置にて作刀していました。

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(画像転載元:「五畿七道」に加筆)


②正宗十哲を作刀時代で分けてみる

以下のように鎌倉末期〜南北朝にかけての刀工で構成されています。
正宗は健全刀には製作年を明記したものは皆無ですが、享保名物帳に大坂長銘正宗と江戸長銘正宗の年期があり、1315~1329年とあります。

正宗(1315~1329年)
鎌倉時代
来国次(在銘年期1288~1292年頃)
則重(在銘年期1308~1326年頃)
志津兼氏(年期作無し)
貞宗(年期作無し。鎌倉~南北朝)

南北朝時代
兼光(在銘年期1321~1362年)
左文字(在銘年期1327~1335年)
長谷部国重(在銘年期1358~1368年)
長義(在銘年期1361~1375年)
郷義弘(年期作無し)
金重(年期作無し)


③正宗十哲の直弟子説は現在否定されている

②を見ても分かるように来国次は正宗の製作年代と被るか微妙な所ですし、郷や金重、兼氏などは年期作が皆無なため、本当に正宗と同じ時代に近くで作刀していたのかすら確証めいたものは見えてきません。
そんなこともあり現在は正宗十哲は直弟子という点では否定されていて、相州伝の影響を受けた代表的な刀工程度の意味合いになっているようです。
十哲の内の1人と聞くとなんだか凄そうに聞こえますが、そんな言葉が無くてもここに上げた刀工は十分凄い人ばかりなのでその言葉にこだわる必要も無さそうですね!

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(写真:正宗)


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