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刀を分かる人が名刀と定めて、初めて名刀になる

「名刀は誰が見ても美しいと思うから名刀なのだ。」

という言葉をふと思い出す。
言い得て妙に感じた記憶がある。
実際はどんな名刀も100人満場一致で美しいと回答が得られるのは難しいかもしれないから、9割位の人が美しいと思えばそれは名刀なのではないだろうか、と個人的には思う。

一方で刀に興味がなく知識のない100人の素人に対して、綺麗に研磨された特保の新刀あたりを見せて美しいか否かを問えば、9割位は美しいと答えるような刀は割と出る気もする。
次にその刀を玄人10人に見せたところ、玄人は3人が美しいと答えたが残り7人は「名刀とまでは…」と答えたとする。
これは果たして名刀と呼ぶにふさわしい刀であると言えるだろうか?
刀に精通した玄人100人に聞いて9割が美しいと言えば名刀なのは間違いないが、素人の9割が美しいと思うだけで名刀と言うにはあまり信憑性が感じられない気分にはならないだろうか。


少し視点を変えて。
例えば「素人9:玄人1」の割合で100人の人を集め、綺麗に研磨された100振(内訳は特保指定の刀95振、重要文化財以上の刀5振とする)の中から上位5振の名刀を決める作業をするとした場合、果たして今名刀とされているような重文以上の刀がしっかり5振選ばれるのだろうか?

素人でも美的感覚の優れた人は相応の物を選べるだろうが、感覚が微妙な人もまた沢山いるのでこれはなかなか難しい気がする。
反対に「玄人9:素人1」の割合であれば今と同じような基準で重文の刀が5振選ばれることだろう。


とりあえず2つほど例を考えてみてあくまで肌感覚でしかないが、「名刀は誰が見ても美しい」のは間違いないと思うが、個人的には「玄人の9割位が唸るような刀が名刀」で「そういう刀は誰が見ても美しいと感じる」、そんな前提条件が「名刀は誰が見ても美しいと思うから名刀なのだ。」という言葉の裏に隠れていると感じた次第。
素人は名刀を美しいと感じる事は出来ても、名刀は選べないし決められない可能性が高いのではないだろうか。

今に限らず昔もそうである。
昔は特に他人の刀を見ることなどなかなか出来なかった時代であったというから、大半の人は今手元にある刀が名刀かどうか分からないし、だからこそ本阿弥家という刀の目利き集団が発行する折り紙を指標にして名刀が名刀であることを認知していたのではないだろうか。
そう考えると名刀は刀を分かる人が名刀と定めて初めて名刀になる、ような気がしてくる。

しかしもし今後時代が移り変わる中で文化が廃れ段々と刀が見える人がいなくなったとしたら。
名刀は文化が廃れた時代でも名刀でいられるのだろうか。
それとも時代と共に見る人の知識や美的センスに応じて名刀という概念も移り変わるのだろうか。

名刀は素人を交えた多数決で決めるべきではないように感じる。
玄人だけの多数決で決めるか、圧倒的に刀を見えて一切悪事を働かない人がいればその人が名刀を決めるのもまた精度が高いと思う。


考えても見れば日本の総理大臣の決め方も似たような決め方がされているように感じる。
総理大臣は国民の総選挙で決まるわけではない。
国民が選んだ代表者(国会議員)が多数決で決める。
頭の良くない国民、政治に興味がない国民が沢山いる中で国民が総選挙で総理大臣を選ぶのは正しい選択が出来るのか甚だ疑問が残る。
そういう意味では地頭が良く政治に精通しているいわば玄人の間で総理大臣を決めた方が選ぶ過程では正しい判断が出来る気もする。
ただそうした議員達が汚職を働いた際に国民が次の選挙まで何も出来ずSNSで炎上させる位しか出来ないのはどうかと思うが。
最後は話がだいぶ脱線しましたが今日はこの辺で。


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それでは皆様良き刀ライフを!

↓この記事を書いてる人(刀箱師 中村圭佑)

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