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フトウコウのはなし その2.

今回は不登校で最初に親がぶつかる壁「なぜ学校に行けないか」という疑問について話をしたいと思う。口に出すか出さないか、その表現も千差万別ではあるが、不登校を知らない人(初めてわが子が不登校になった親含む)は、まず必ずその問いをする。

最初にハッキリさせておきたいのだが、その問の答えは「分からない」のがどなたのパターンにも一番当てはまると思う。それは、本人の意識の深いところで起こったことなので、本人の意識に上がってきてなおかつ本人が、その内容を整理できないと説明できないからだ。

私は専門家ではないから詳しいことは分からないが、他の保護者さんの話や自分の体験から、ほぼ間違いないと思っている。ちなみに「不登校が防衛本能によるもの」という考え方は臨床心理士の先生もそう思うと言ってくれているので、あながち外れていないという程度にはご理解いただけるとうれしい。

「分からない」という答えの話に戻る。それは「不登校で困っている状況」が一つずつ解決されていく最中や、解決された後になってから『ああ、こういう事だったんだ』と判明してくる。
つまり不登校が始まった最初にまず、親としては何とか「原因」を突き止めて「解決するサポート」をしたいが、実はそれが分かる頃には最初の一歩はすでに出ていて、もうその時点では「原因」を知る必要性は無くなっていることが多いのである。
この1点だけ取っても「原因さがし」はあまりためにならないと思う。今、本当に必要な時に見つからないものを探すことほど、忙しい大人を疲れさせるものは無いと思う。

さらにこれだけにとどまらず、この「原因さがし」は本人と家族にとって大きな害を及ぼす。できれば、不登校・引きこもりに悩むすべての人が回避できるといいなと思う。それは最悪の場合、子殺し・親殺しに発展する可能性すらある。「原因さがし」するということは、本人の現状を否定する立場に立つということを意味するからである。

実際に作業してみると分かる。わが家の場合「家庭と学校の連携が大切」というキーワードで、担任の先生に家庭訪問に来ていただき、子供と一緒に問題を一つずつつぶそうという試みをした。学校に行きたくない理由を箇条書きにさせ、あらかじめ私が学校へ届けておいて訪問時に先生がそれに答えるみたいなやり方だったと思う。
内容は「席の周りが他校からの進級者ばかりで休み時間知っている子と話せない」「部活で試合形式のときに他の部員の子に見られるのが嫌」「給食が食べきれない」などなど…これはほんの一部だ、全体の1割にも満たない。

数え始めると、ほとんどが少し我慢すれば別にどうということの無い、学校に行かないためのつまらない言い訳のように思えた。先生も同じような感じを持ったと思う。ベテランで陸上部顧問のバリバリの体育会系、保護者の評価が高い安定株の担任の先生だった。だから子供をバカにするような態度は一切なかったけれど「うーん、部活の練習形式は変えられないかな」など、ほとんどがどうにもならないことを再確認する結果に終わった。

この作業をしていたのは、夏休み明けの一件(詳しくは1話をご参照下さい。)以降、行けたり行けなかったりしている最中だった。夫は夜帰ってくると「明日は行くのか」みたいな確認を毎日した。そのうち木・金行くために月~水休んだり、「自分はこう計画します。運動会まで休んだら運動会明けは絶対行きます。」みたいな計画を立てていかにも前向きに行動してるみたいなやり取りもした。

他に寝不足を押して毎晩夜遅くまで子供の話を聞いてみたりもした。私は自立神経があまり強くないので寝不足がまともに日常生活に響くけど、そんなこと構わなかった。世間のほとんどの親御さんと同じように、子供のために自分がボロボロになるのは親として当然のことだった。このような感じで子供が一日も行かない状態に落ち着くまでに、私も夫も行けないことが認めらず「原因と対処法さがし」に明け暮れた。

「できないことを探して書き出させる」作業、またそれを先生に相談しても「対処できないようなつまらない問題だった」という結論などから、「自分はダメな人間なんだ」と思う要素ばかり子供の周りに増えていった。子供の自信はどんどん失われていったと思う。

一方、私は私で「親としての能力」への自信が、ゴリゴリに削られた。「原因」をつぶそうとすればするほど、わが子がいかに心の弱い人間に育ってしまったか思い知らされた。ただでさえ自信がなかったのに。
当然私は自分自身を責めた。子供が生まれてからこれまでの、自分の育児に問題が無いなんてとても思えなかった。

今、読者の方のために特筆しておくが、実際は問題無かった。
より正確に言うと、育児の正しい情報が世間にたくさんあるようでなかった。「ありがとうとごめんなさいを言える子供になりなさいと、もっと大事なこともあったけど」という歌詞(※Eve『朝が降る』より)の言う通り、足元のおろそかな理想論が、そこらじゅう無責任に溢れている。

核家族で育児経験の無い母親が、そんな理想論を真面目に実行したからって誰からも責めを負う必要は無い。つーか、自分の人生だし自分の子育てなんで。そこから出た大変なものも全て自分で引き受けてるので。
だからもし、不登校・引きこもりの親御さんでご自分を責めている方がいたら、直ちにやめて欲しい。それは問題解決のために1ミリも役に立たない。

また、本人達のためにもこれは声を大にして言いたいが、子供の心が軟弱に育ってしまった訳でもなかった。後で知ったが、むしろ責任感の強い真面目な子の方が不登校になりやすい傾向にある。ついでに言うとわが子の好きな言葉は「気合と根性」である。こういう人の方が心が折れやすいと世間ではよく言われているが、まさにこれを証明したわけである。

また話が少し逸れてしまったが、こんな感じで「原因さがし」は確実に子供とその家族の自信を損なう。そしてまたさらに、なぜそれを、そこまでしてする必要があるのかと考えてみると、「今の本人の現状が許されないものだから」となってしまう。
それは親が許せない・認めないのか、学校がそうなのか、社会常識的に許されないものなのか、全部なのか、それぞれ差はあるけれど。

ここで一つ思い出してほしいのは、「不登校が防衛本能によるもの」だということだ。引きこもりも同じ。社会的動物である人間が、社会との関わりで本能的な危機を感じ、自己を守るために発動された緊急事態なのである。
だからそれは生理的に正しい反応なのに、一番の味方であるはずの身近な大人たちにこぞって「許されない」と判定されたら、そして自分も意識的に強くそう思い込もうとしたら、子供はどうなるか。親たちが追い詰められてしまった場合にはどうなるか。考えてみてほしい。

こうして考えてみたら、ニュースの子殺し・親殺しだって全く他人事ではなくて、むしろ、日本人の中でもものすごく真っ当で真面目な人達に起きた悲劇だと私には思える。

以上のような次第で不登校の「原因さがし」はできればやらずに済む方がいいと私は考えている。
一つは解決が始まらないと原因は表面化しないものだから。また、もう一つは、本能的な防衛機能が働いているだけで非が無いのに、具体的な「原因」として探し始めると本人や家庭の育児に非があるようにしか思えなくなり、本人と家族の自信をさらに損なうから。

しかし、これはやらずに済めば一番だが、やってしまったからと言ってすべて終わりではないことは強調しておきたい。明日からそれ以上追求しなければいいだけである。
苦しくても何とかしようと必死にもがくということは、その人が一生懸命生きている証に他ならない。そしてそれは、家族の歴史を作る行為でもあると思う。知らなかったお互いの一面が見えたりする。
たとえ世間の人たちがどんな風に言おうとね。

ただ1つだけ、問題の認識を間違えたまま突き進むのは状況を余計にややこしくしてしまう危険性がある。
常識をひっくり返さなければ何も見えてこないということを、まず覚えておいてほしい。


おおむね不登校・引きこもり問題は解決(当人とその家族が「解決した」と感じた時)までに年単位の時間がかかる。
つまり「原因」の表れ方のペースも年単位ということである。

私の知る範囲では、本人が乗り越えていく過程で都度、自分のモヤモヤを言語化して自分で確認しながら進んで行くパターンとか、大人になって何年も経ってから(つまり今から10年20年経ってから)意識に上がってきて説明がつく場合もある。そしてその場になると分かるけれど、それは「その人らしさ」を作る大切な一部が関係していたりする。

個人的な感覚では大人になってからパターンが多いような気がする。わが子も中学卒業後高校3年間無事に通ったものの、その中で本人が中学時代の不登校の話を振り返ることはなかった。修学旅行の話が出たときは行ったことにして話したようだ。今も継続して次の学校でがんばって生きているが、いまだに社会で自分のペースをつかみきれていないように見えるので、このパターンなのではないかと思う。

最近、そんなわが子が「子供の集団怖いんだよね」とポロリと漏らしたので、あれから3年以上経ち、もしかしたら子供の中で何かが整理され始めているのかもしれないと思う。

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