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三浦半島てくてく散歩☆初声町の寺社巡り🐟

前回の虚無僧寺竜山寺の『探墓行』の道すがら、ぐるりと初声町の寺社を巡り歩いてみました。

前回はこちら↓


虚無僧寺竜山寺の本尊、不動尊がお祀りしてある安楽寺のすぐ近くにある岩神社。

岩神社

いかにも古い。


この辺りに、猫石と呼ばれる堅い岩があり、この一角を猫石公園と呼んでいたが今は農道のために無くなってしまったとのこと。

この岩のかみにあるので、岩上、後に岩神となったようです。


おあげ(油揚げ)とお赤飯がお供えされています。お稲荷さんなのでしょうか。



そして、虚無僧寺竜山寺の不動尊が祀ってある安楽寺にて。

安楽寺の石段供養塔

弘化二年(1845)の供養塔とのこと。

こちらに詳しくあります↓


集落から西へ下ると、広い畑が広がり、学校や文化施設、商業施設があります。

横須賀市から神奈川県の海岸線に沿って、三浦半島や湘南地方を結んでいる国道134号線を横切り、若宮神社へ。


『新編相模国風土記稿』


若宮神社

由緒
永正2年(1505年)に三浦道寸と北条早雲の合戦の際に戦火に遭い、社宝や記録など一切を焼失したので由緒沿革を知ることができません。焼失ののち、寛文13年(1673年)に社殿を再建しました。明治41年(1908年)に神明社、稲荷神社、日枝神社を合祀しました。現在の社殿は平成元年(1989年)に造営されました。

狛犬には、安政五年(1858)とあります。


聖徳太子供養塔


てくてく、海の方角に向かいます。


途中に見た駐車中のトラックたち。
もういかにも海っぽくなってきた。

最近こういうトラック見ないよなー。



前回記載した実相寺のすぐ近くに、同じく日蓮宗のお寺があります。


延寿寺


お隣の実相寺は天女で、延寿寺は鬼子母神。


こちらの鬼子母神は、東京雑司が谷の、鬼子母神、中山法華経寺の鬼子母神と並んで関東の三鬼子母神とうやまわれたとのこと。


日蓮上人の弟子、朗上人に仕えた日範上人開山。ここ延寿寺で入寂されたが、なんと齢124であったそうな。

境内には、日範上人手植えの枯松が保存されており、根元の直径が約1.5メートルもあり以前は天然記念物であった。


お寺の横の坂を登ると、いきなり広がる広大な大根畑。

来た道を振り返る。
広い…。


そして、また狭い道が迷路のように入り組んでいる集落に。


浄土宗龍圓山福泉寺

おお、お寺の屋根の上にとんび


六地蔵


本堂に入らせてもらいお参りさせて頂きました。

魚鼓

時計を前にしてここの時間は止まっている感じ...。
癒されます。


お寺の掲示板

願うことは
祈ること 
誓うこと  
心に寄りそうこと

 

墓地は見晴台にもなってます。

うみー。


色んな石塔

一番左の庚申塔の青面金剛さま、ショケラ持ち。


真ん中の像は子育観音像。

 『子安マリヤ観音』として隠れキリシタンの信仰の対象であったとされているそうな。


一切忙虫魚墓

虫や魚、生ける物すべてへの憐みの心を表す墓石。


それはきちんとお参りせねば🙏


そして、海沿いに行きます。


海岸近くの路傍に、石碑がありました。


大乗妙典六十六部塔

正面に「奉納大乗妙典六十六部塔」

左右
「文化甲子年霜月摩訶日」
「経営神田五郎吉」

日本石仏事典によると、

経典供養塔のうち納経塔の一種である「廻国塔」は、釈迦滅後、弥勒菩薩がこの世に下生するまで、大乗妙典と呼ばれる法華経をわが国六十六カ国の霊場に保存する目的によって六十六部作り、それを一部づつ霊場に納める目的で国々を廻っていたこと、または廻っていることを銘文にした塔のことである。

日本石仏事典


昭和初期まで、白衣を着て背中に仏像の入った厨子や笈摺おいずるを背負い、家々に合力を求めて歩くいわゆる六部の姿を、東京でも下町あたりでは見かけられたのだそうだ。

六十六部、または単に六部とも呼ばれ、信仰心によって路銀の蓄えがなくても国々を勧進しながら廻る者が多く、のちには乞食の代名詞になったほどであった。


前回の竜山寺についても書かれていた、市民の歩みを記録する会編集の『遠い日のふるさと 思い出三浦』の「市民の手記」に詳しく書かれていました。

江戸時代に盛行した信仰の一場面に、現世の罪業も前世の宿業も、全て滅ぼすことができるという、滅罪巡礼の色彩をもつ回国六十六部がある。これは日本全国六十六ヶ国の神社仏閣を巡礼し、滅罪経典である法華経を写経して、その一部ずつを回国奉納して歩く修行の旅をいうのである。
この三浦の海辺に沿って続く道に、石地蔵や庚申塔を並んで、「六部の碑」が多く見られるとのこと。この巡礼者のことを「六部」と呼ぶ。
これらの碑の中には、滅罪と病気平癒の誓願をこめ、死後の安楽を望みながら、命の灯の消え果てるまで回国巡礼をしつづけ、どこかの村で死んでいった巡礼の碑もかなり多くみられる。

こうした遍路のなかには、故郷に住むことのできない罪をもつ者や、飢餓の口べらしのために遍路にでた者、また不義の子を宿した武士の若い娘や、かつては地位の高かった医師が、病のみたて違いから村八分にされ、いたたまれず遍路にでた人など、暗い過去を背負った者が多かったと言われている。


言い伝えによると、

江戸時代に弘法大師を崇拝する信者で、日本回国の霊場を巡る六十六部が、白装束をつけ笈摺おいずるを荷い、一笠一杖いちりゅういちじょうで鈴を打ち鳴らし、法華経を唱えながら、五郎吉氏宅の前に立ったのは、文化元年十二月のことであったという。当時は旅僧や巡礼などを親切にすることを誇りとする習わしがあり、一夜の宿を提供する、いわゆる善根宿ぜんこんやどの慣習があったといわれている。

五郎吉氏はこの六部を早速家に案内し、その日の宿を供した。そしてこの日のために用意しておいた、米や草鞋を恵んだり、白衣のほころびなどを修理して接待した。こうして遍路を厚くもてなすことによって、我が家の祖先の供養にもなり、無病息災や五穀豊穣が約束されると信じたからである。

ところが其の夜から六部は突然にこわれ、床に伏すようになってしまい、数日後看病の甲斐もなく、最後の息を引き取ってしまったという。

五郎吉氏はこの六部の死を悼み、早速この近くの海岸に遺品を埋めて供養塔を建て、手厚く葬ったといわれている。


ジンとくるお話です。

この塔、現代の人は見ても何が何だか分らないと思うので、是非説明板を立ててほしいです。


三戸浜

うみー。
遙か先に伊豆半島。


左端の海岸沿いにある石は、江戸時代、石を積んだ船が沈没して石だけ流されてきたとのこと。コンクリートか、わざと置いてあるものかと思ってました。

かなり大きいです。


これは伊豆の石丁場から切り出された江戸城用の石材で、江戸への運搬途中で海中に没したものが、海岸に流れ着いたものと考えられるそうな。


そうかー、こんなに遠くから江戸城の石を運んでいたのかー。


海養山 地藏院 霊川寺

いぼとり地蔵尊

何故か貝殻に埋め尽くされています。




左端は、徳本念仏塔


徳本とは、江戸中期の浄土宗の代表的な念仏行者。 

近畿以東、関東に至る各地に徳本行者独特の書体を刻んだ名号碑が見受けられ、その数は多く遺存するそうで、その地に留錫して布教につとめたことを実証するものであるとのこと。先程の浄土宗福泉寺にも門前にありました。


左は万霊塔。
『六道四生三界萬霊之塔』とあります。

右隣のお地蔵さまは、かなり人目を引く印象的な石仏さま。錫杖が大きい。


庚申塔三基



最後に、


『国史跡 赤坂遺跡』

この標識が立っているだけで何もありませんが...、

弥生時代中期から後期にかけて営まれた大規模な集落遺跡で、多数の竪穴建物の存在が確認されたそうな。


最後に一気に時代が遡りましたね〜。


それにしても、かつての日本人は何に対しても供養して石塔を建立したのですね。虫から動物に巡礼者、聖徳太子に石段まで。その石を運んだり掘ったりするのも一苦労なのに。
そして、我々は何が出来るかと言うと、色んな事物に想いを寄せる、これが一番大事なことなのではないかと今回改めて思うのでした。


歴史あり海あり山あり、の魅惑の三浦半島でした♪また来たい!

帰りはもちろん、三崎口駅前の「三浦の磯焼き屋」さんで、マグロ丼を食べてかえりました♡🐟



参考文献
市民の歩みを記録する会編集『遠い日のふるさと 思い出三浦』
庚申懇話会編『日本石仏事典』



古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇