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コム活日記☆デタラメも悦に入れば…。

辻立ち虚無僧で吹く曲はだいたい決まっている。
調子、虚鈴、大和調子、阿字観と続けて吹いて、その後は、虚空や瀧落、三谷に志図の曲、鉢返しに紫鈴法、筑紫鈴慕、奥州三谷、布袋軒鈴慕などなど。


いつどこで誰が聞いているか分からないので、一応真面目に吹く。

結構、知っている人に聞かれていたりするかも知れない。

何故ならこの数年の間、私の吹いている曲名を知っていた、3名の尺八奏者に路上で声を掛けられたのだ。


偶然通りかかった尺八奏者もしくは、愛好家は幾人かいると想像する。上手い下手の判断くらいはされているだろう。


なので、あまりデタラメには吹いていられない。




しかしながら、一時間以上吹いていると、そりゃ疲れてくる。最初は気合を入れて吹いていても、だんだん力が入らなくなったり、吹いている曲が別の曲に移行していたり...。

この、途中で別の曲になってしまうパターンは時々あって、あれ?とまた戻るんだけどまた同じように別の曲になってしまい、絶対に思い出せない脳味噌の謎の空白ができたりするのだ。すごく悔しい。

単純に「吹き足らん」ということか。



もしかして、誰か聞いているかもしれないと思うと、そういう時は適当にお茶を濁すではないけれど、本曲の色んなフレーズを吹いてごまかす。


老いの唄 振り出しにばかり 戻ってる


こちらは『月刊みんよう』に投稿されていた川柳。
まだここまでいってないと思う…。


この月刊誌に『虚無僧随筆』として高橋虚白師が、自身の虚無僧話を連載している。


西村虚空師の弟子、高橋虚白師は、竹一管を友として、北海道から九州まで虚無僧行脚した人だ。まだテレビが各家庭に無かった頃の話。



随筆にこうある、

昭和二十八、九年頃はまだテレビは放映が始まっただけで、一般には受像器が出回っておらず、飲食店や、又広い家などで一人五円とかの入場料をとって野球やプロレスを観戦させていた時代だった。南の離れ島に行ったら尚更、各戸毎にはラジオさえ行き渡っていないのである。尺八の音も電波を通しては耳にしている、又時折巡回してくる時代劇映画で虚無僧も見たことはあるが、実物を見て、実際の尺八をジカに聞くことは初めてであり、珍しいことに違いなかった。だから不便な山村や離れ島に行くと、大変な歓迎をうけた。そして一夜では帰してくれないことが多かった。今日は家の誰それが漁に出て居ないとか、隣村へ用達しに行って明日帰るから、是非聞かせたい、もう一晩泊まってください。ということになり、その日は部落を廻ったりして皆さんの意志にそうようにしていたものである。(中略)そのご好意によって一夜お世話になると、先ず尺八を吹いて吹いて、吹きまくることが普通である。昼の托鉢は音響説法方式で歩くのだが、所望されて何十人も部落の人達が集った時は、こちらは献身的に娯楽の時間を作ることにつとめるに越したことはない。そこに集っている人々は、赤ん坊から老人までなのだから、自分の知っている限りの曲を次々と童謡から流行歌、民謡や新尺八楽やら古典本曲、千鳥の曲やら六段の調べ、越天楽も、春の海も、元禄花見踊りも、ポッポッポも、である。


ポッポッポ、は、鳩ぽっぽの事だろうか。
流石に吹いたことない。

そして虚白師は、四時間、五時間と吹き続ける。吹いて吹いて、吹きまくるとのこと。12時はとっくに過ぎて夜中の2時になっても、大人たちは帰ろうとしない。最後の曲のリクエストを聞いたが、何でも良いとの答え。昼は歩き疲れ、夜は吹き通しでだいぶ疲れて、意識が朦朧としていた虚白師。興に任せて暫くの間吹き続けた。


今まで吹いてきた曲の良いところを次々と組曲のように吹きまくったものと思う。吹く方は無念無想の境地だ、尺八の音としては最も好条件であった筈である、聞く方もうっとりと、せき一つない静けさ、音響説法そのもの、一音成仏だ。
吹き了えたら、
「良いですね、何という曲ですか」
「いや、今のはでたらめでした」
「ハァーでたらめも良いものですなぁ」


故山田悠氏所蔵
『月刊みんよう』抜粋


熟練者ゆえの卓越したでたらめの境地か。




でたらめとは人聞きが悪いが、私もすでに何曲も吹いたある日のこと。
朦朧としながら本曲フレーズを吹いていた時、虚白氏の言葉をかりれば組曲になっていたその時、一人の男性が話しかけてきた。



「普化、ですか?」


おお。ご存じですか。


なんて会話が始まった。普化という言葉を知っている人は珍しい。その男性曰く、武道をやっており、そこでの知人の方が普化尺八を吹いていたとのこと。
その人はもう高齢でやめてしまったらしい。 


「なんか、聞いたことがあるなと思ったんです。物悲しいというか。」


そう。やはり、独特なメロディーは普化尺八ならではか。迷宮に入った曲を、どうやって終わらすか吹いていた最中、物悲しく聞こえていたなら、それはそれで良かった。


哀楽は吹人ふくひとの上にあらず聞人きくひとの上にあり。不可疑うたがうべからず

久松風陽著『独言』



その尺八を吹いていたという知人の男性は、都心では門付けは出来ないからと、地方に行って虚無僧をしていたとのこと。


もっとお話を伺いたかったが、お邪魔してすみませんとその男性は遠慮してか早々に行ってしまった。きっと、その知人の男性のことを懐かしく思い出したのでしょう。



デタラメでも何でも、聞こえていなければ全く意味がない。騒がしすぎる場所や、人混みが密過ぎる場所では、耳にも入らず目にも入らず、人々の反応もかなり薄い。



本当に聞えているのか、最近録音して聞いてみている。


新宿の電車の高架近くにて、奥州三谷を吹く。
この曲を吹くと神保政之輔(作曲者)が立って聞いてくれている気がする。

怖い顔して…。


最後の方にチャリンの音。ありがたや🙏
録音は途中まで。


雑音騒音の中では、高音の方がよく聞えていたかと思っていたが、わりと低めの音も聞えているようだ。特に、背後に壁があったほうが良い。さらには屋根などもあった方が、反響するのでさらによく聞える。


時々、路上で、

おお、今めっちゃ上出来に吹けた。と

いう時もある。



一人悦に入っても仕方ないが、虚無僧さんの幽霊が聞いてくれている。
と、思っている。



本当は、

生きている人に、一人でも多くの人の心に響けば...

と願うばかり。


鍛練、鍛練!





こちらも虚白師のお話↓


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