1400年代の雅楽書「體源抄」を読み解く☆其の一📖猿と尺八🐒
古代尺八(雅楽尺八)の孔が六孔あったのに、いつの間にか尺八は五孔になってしまいます。
その五孔となったのがはっきりと確認出来るのは1512年(永正9年)成立の『體源抄』に描かれた尺八の図。
これは都の楽人、豊原統秋(1450ー1524年)がみずから家芸の伝承の為に撰述した雅楽の書。
『體源抄』の編纂意図は、統秋が応仁の乱(1467−1477年)などによる乱世を嘆き、芸能伝承を書き残したものとされています。
『教訓抄』(1233年)、『楽家録(1690年)』と並び、三大楽書の一つとされる。
『教訓抄』に関してはこちら↓
尺八の歴史に関する本には『教訓抄』と同じく、『體源抄』も登場するのですが、抜粋で全文の解読は無いようなので、ここで細かく読み解いていきたいと思います。
漢詩などが出てきて、けっこう面白い。
以下、国立国会図書館所蔵の『體源抄』の尺八についての部分の画像と、解説の訳をしていきたいと思います。
律書楽とは、中国の楽書のことで、982年に成立した辞書、和名類聚抄 にも「律書楽図云尺八為短笛縦笛吹者也」と書かれていた。これは『教訓抄』にも同じ事が書かれているので、孫引きである可能性あり。
竹冠の「尺八」という字は表示出来ないようです。
穴の文字は、
壱越(いちこつ)、盤渉(ばんしき)、黄鐘(おうしき)、双調(そうぢょう)、平調(ひょうちょう)の頭文字。
綾小路入道(号楽林軒)とは綾小路有俊(1419−95)のこと。雅楽うたいもの、神楽歌、催馬楽(大陸的な旋律のリズミカルな伴奏の曲)、朗詠、 今様などの師範家を担った雅楽の伝承者。
626頁の図で表に四つ、裏に一つの孔になったことが分かる。
長いので、分割して読み解いていきたいと思います。
【目出る】→愛でる
【委注】くわしく書きとめること
猿の鳴き声でみんな仏道に入ってしまうなんて、おとぎ話みたいですね。
教訓抄にある、
ここからさらに、猿の鳴き声を聞いて出家したという物語が追加されています。
この物語が膨らんでいく辺り、その300年後に書かれた「虚鐸伝記」にも似るところがあります。そして当時の日本では、「中国から来た」「中国由来」であれば箔がついたということ。
【善知識】修行をつんで、仏道に縁を結ばせてくれる人。転じて、徳の高い高僧。
〈仏教における恩〉サンスクリットのウパカーラupakāra(他の者を思いやること)、またはクルタkrta(他の者から自分になされた恵み)の漢訳。仏教では、人は恩を知り(知恩)、心に感じ(感恩)、それに報いなければいけない(報恩)とされる。
【至りて】非常に。きわめて。いたって。
【知音】 親友。 心の底を打ち明けて話すことのできる友。 知人。
話がどんどん膨らんできました。今度は『虚鐸伝記』の張伯さんの話に似ています。竹を切ったら、偶然同じ音がしたというくだり。
もしかしたら「虚鐸伝記」は、これを真似たのか?
唐代にはすでに「尺八」と呼ばれる5孔の骨の笛が発明されていたとのこと。
さらに(1)と(2)の漢詩文を読み解きます。
巴峡秋深五夜之哀猿叫月
全文はこちら
作者は謝観。「清の賦」の中に書かれており、「清響」(甲高く澄んだ響き)を主題にしたものだろうとのこと。
巴峡とは長江上流の峡谷の名。湖北省巴東県の西。難所で知られる。
巴猿という言葉もある。
【巴猿】〘名〙 (湖北省巴東県の巴峡には猿が多く、とくに舟旅で聞くその鳴き声は古来、哀愁をさそうものとされていたところから) 旅先で鳴く猿。また、その鳴き声。また転じて、旅愁。
2. 香山館聴子規
ここに出てくるのは、竇常 (とうじょう)という人が書いた詩の前半。
「香山館に子規を聴く」
子規とはホトトギスのこと
ここ辺境の地、楚では、春の過ぎゆこうするころ、はやほととぎすの声はだんだんきかれなくなってくる。はらわたを絶つ猿の声、衣をうるおすほどのその声も、今夜のほととぎすの声の悲しさには及ぶまい。
うっそうと茂る古木が雲に包まれているひとけのない山中にこだまして。
さながら、数知れぬ啼き声が一時に飛び立つよう。 (『三体詩』朝日新聞社刊より)
「楚塞」の楚(かつての王国)は洞庭湖の周辺一帯をいう。
「断猿」は腸を断つまでに悲しむ猿の意。ある人が小猿を捕らえたところ、母猿が哀号してあとを追い、ついに悶絶した。腹を開いてみると腸がずたずたにさけていたという〈「世説新語」(中国の逸話集)「捜神後記」(中国六朝時代の志怪小説集)などにみえる〉。
「衣を沾おす」は猿の啼き声の悲しさをいう。三峡付近の古い民歌に「巴東の三峡、巫峡長し、猿啼くこと三声にして涙衣を沾おす」とあるにもとづく。
「譲る」はその猿の声の悲しさも子規には及ばないということ。(『三体詩』朝日新聞社刊より)
そして、箇条書きになっている部分。
一行目
白楽天とは、
白居易(772-846年)のこと。唐代中期の漢詩人。字が楽天。
白居易の詩は中国国内のみならず、日本や朝鮮のような周辺諸国の人々にまで愛好され、平安文学に多大な影響を与えた。
紫式部は『源氏物語』「桐壺」のほとんど全般にわたり、白居易の「長恨歌」から材を仰いでいることなどからも、当時の貴族社会に広く浸透していたことがうかがえるとのこと。(佐藤一郎『中国文学史』)
「長恨歌」とは、玄宗皇帝と楊貴妃との愛と哀しみをつづった七語古詩。
唐代、元和十年(815)、作者は長安より江州(江南省九江市)へ左遷される途中、この詩を作って同行の妻に贈った。時に44歳。唐都、長安を追われた白居易は、途中、商州で三日間留まり、妻子の到着を待って一緒に江州に赴いた。
二行〜三行目
山水のさまざまな状況について叙した対策の一節で、前半は山の、後半は川べりの、いずれも中国の風景について述べている。
(『三体詩』朝日新聞社刊より)
ともかく、猿の鳴き声は聞いていて悲しいということ。
最後、
急に話が変わります。
猿笛という笛もあったんですね…。
以上、今回は国会図書館所蔵の「体源抄」628頁6行目まで。
一応『體源抄』に書かれたとものは、「尺八」という楽器の説明書なのですが、実話と創作が入り混じっている感じ。読み解いてみると、面白く濃い内容。情報満載です。
興味深いのは、『體源抄』には『教訓抄』に無かった「出家」「仏道」など、仏教用語が登場すること。時代背景によるのでしょうか。
『虚鐸伝記』にも、とても似た部分があり、普化禅師の振る鐸の音を真似て竹を切ったら偶然同じ音がした、という辺りなど。
尺八起源説については、現在ではこの「體源抄」の猿の骨説ではなく、唐代の呂才が発案したという事が定説になっています。
呂才説の古いものでは、江戸前期の儒学者、林羅山の書いた「羅山文集」に「呂才」が登場します。
唐太宗貞観年中有起居郎呂才者善知音律
(唐の太宗皇帝の治世に、音律に優れた呂才という男がいた)
とあり、「體源抄」の書かれた150年後頃です。ですから、それまでは「猿の鳴き声説」が尺八の起源とされていたのでしょうか。
羅山が最初に「呂才」のことを取り上げたのかは分りませんが、「尺八」については慶安元年(1648年)に書かれたようです。
明暦3年(1657年)、明暦の大火(いわゆる振袖火事)によって邸宅と書庫を焼失してしまったということで、色んな重要な資料も消失してしまったのでしょうね。残念…。
呂才説はこちら↓
それにしても、「猿の鳴き声」に関する歌がけっこう詠まれているんですね。
山で会う野生の猿は、人間を威嚇してかギャーといった感じで鳴きますが、そうでない時の鳴き声は、よっぽど悲しげなのかしら。人に一番近い訳だし、悲しげに鳴いてたら、ホントに泣いてるみたいなのか気になりますね。
余談ですが、私の祖父たちは昔、山の中で時給自足で暮らしていて、野菜もお米も作っていたのですが、ある日、祖父が山の斜面で畑仕事をしていてら、近くの石の上で猿がじっと祖父の方を見ていたそうな。そして、お昼過ぎてもじっと祖父を見ていて、とても強かった祖父も流石に気味が悪くなってその日は早めに仕事を切り上げたそうです。
猿は人間に近いぶん、何を考えているのか分からないと思うと、余計に怖く感じるかもしれません。
古代の笛に、動物の骨を使って作られたものがありますね。
こちらはコンドルと鹿の骨のケーナ。
自然と人間が近かったことが分かります。
尺八の音色(猿の鳴き声)をたまたま聞いていて仏道に入りたくなったなんて人が現れるくらいの演奏を…、してみたいものです。
『體源抄』まだ続きます♪
国立国会図書館デジタルアーカイブで「体源抄」読めます↓
https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1125450
古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇