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虚鈴の音。

古くから伝わる尺八曲のことを「古典本曲ほんきょく」と言うのですが、その中でも古く伝わる三つ曲があり、「古伝三曲こでんさんきょく」と言われていて、その中の一つに、「虚鈴きょれい」という曲がある。

『虚無僧雑記』によると、忌日などに虚無僧を招いて供養する時に吹く曲が『虚鈴』であったとのこと。(神田可遊著『虚無僧と尺八筆記』)

『虚鐸伝記』という普化宗創始伝説には、普化禅師が鐸(鈴)を振りながら市中を歩いていた時、それに感銘を受けた張伯という人が、普化禅師に従い学ぼうとしたが断られたので、以前から嗜んでいた竹笛に鐸の音を写した、とある。


「虚鈴」を吹いていると、高音の「ヒイーヒイーヒイー(ハイーハイーハイー)」の部分が、托鉢僧の振る鈴のチーンチーンという音とも似ていて、普化禅師が鳴らしていた鐸(鈴)の音を連想する。

この「虚鈴」は、ナヤシもユリも無く、単純なフレーズの繰り返しで、宗教的な雰囲気があり、連管すると、高音の部分が束となって天井に渦となって高く舞い上がっていくように感じる。

前述した供養の時に吹く曲であったということで、葬儀や法要などで吹かれていたとのこと。

私はこの曲の連管がけっこう好きである。

流派によっては、乙音から入るそうですが、明暗流の谷北無竹系は甲音から入る。
最初から気合を入れて吹かなければいけない。



と、前置きが長くなりましたが、


とある駅前にて、いつにも増して心を研ぎ澄まして「虚鈴」を吹いていた時のこと。

その駅は高架になっていて改札が2階で、降り口が北側にある。南風が強い時は、その降りたところで辻立ちさせてもらっている。

屋根があるので雨の日でも吹けるという大変有難い場所だ。さらには、空間的に尺八の音がとても響くので最高の辻立ち場所でもある。

よく聞こえるので、通りすがりの人々の反応もそこそこある。
 


さて、

いつものように吹き始める。

調子、阿字観と吹いた。

雑音の多い場所では高音の多めの曲を吹くが、ここは良く響くため、高音多めでなくても良いのだが、この日は何となく高音多めの「虚鈴」を吹いてみたくなった。

鈴の音色を連想しながら吹く。


すると、

ベビーカーを引きながら近づいてきた女性が、


「ここ、けっこう響くんですけど。」


とだけ言い、去って行った。

その言葉の含む意味は、文字だけ見れば、ニッコリ笑って「ええ、そうなんです」と言いたいところだが、その女性の顔を見れば別の意味が含まれることはすぐに察しはついた。


物凄く怖い顔をしていたのだ。

咄嗟に頭を下げる。


実は、その日はたまたま辻立ちの前に、駅の向う側にある高層マンションを見上げた。

以前、津軽三味線の路上演奏者の知人が、マンション住人から苦情を受けたと聞いたことを、そのマンションを見上げて思い出していたのだった。
予知だったのか…。

マンション住人からしてみたら、
三味線だの、尺八だの、普化禅師だの、虚鈴だの、そもそも仏教だの、関係ないのだ。

静かに暮らしたいのだ。



その駅前は、今までいろんな人との出会いもあって思い出深いところだったので、なかなか傷心なことではある。

また一つ、辻立ちできる場所が減ってしまった…。

この日は吹き始めて15分くらいの出来事だった。先日の「20分の奇跡」ならぬ「15分の悲劇」だ。




どうでもいいコム活情報によると、


排除で一番優しいのはお巡りさん。
「ごめんなさいね〜、通報入っちゃって」と申しわけ無さそうに言ってくる。

次に優しいのは無くて…、

威圧的なのは、その場所の施設や駅などの警備員が「規則なので」という排除。
このような人たちにとっては、ただの迷惑行為でしかない。
ただし、人によって許容範囲が違うので、別の日には排除されなかったりする。時々親切な人は、この線の向こうなら大丈夫ですよと教えてくれたりする。要は、音ではなく土地の問題。

一番怖いのが、地元の人や個人的に虚無僧が嫌いな人。
野良犬のような扱いを受けたこともある。
辻立ちでは、ここで商売するな!と怒鳴られたり、門付けでは、焼け跡から見つかったような使用不可の1円玉をくれた人もいる。ただの嫌がらせだ。

こんなことを言うと虚無僧やりたいと思う人が益々居なくなってしまうかもしれないが、最初から誰からも必要とされない前提の職業、行為、そしてその人となれば、いかに自由でしがらみから解き放たれることか。こんな気楽なことは無い。

人は何かの役に立たなければいけない、人の為にならなければいけないと暗黙的になっている気がする。
ただ、聞いてほしい一心で路上で尺八を吹く。ただそれたけだ。


さて、
そうは言っても、

仕事で大失敗やらかしました、
彼氏にフラれました、
詐欺に騙されました、

くらいの勢いのうなだれぶりで、次の駅に行く。自称役立たずも凹むのだ。


周辺に商業施設の建ち並ぶちょっと騒がしい場所に移動する。
傷心のときはこれくらいの場所がいい。
横には交番まである。

「20分の奇跡」の時とは違い、今度は何人かの反応があった。

救われた。
ただ、何となく埋められない何かが心に残っている。

人間というのは勝手な生き物で、100回良いことがあっても、一回悲しいことがあると、100回の良いことなんて忘れてしまう。
恐らく日常でも、嫌なこと悲しいことの方が少ないはずだ。
見方によっては、世の中良いことだらけだ。


そう、実際はいちいち記憶に留まらないくらい、良いことに溢れている。



なので、

記憶にきちんと残るように「コム活日記」には良い出来事をじゃんじゃん残していきたいと思うのでした。



次回は、良いことありますように🙏


参考文献
神田可遊著『虚無僧と尺八筆記』



古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇