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拾う神さまに会いに行く☆ある路上演奏者の話🪈

「捨てる神あれば拾う神あり」

ということわざがある。

見捨てられることはあっても、一方で助けてくれる人もいる。たとえ不運なことや困ったことがあっても、悲観することはないというたとえ

故事ことわざ辞典



『ことわざを知る辞典』の解説によると、 

[解説]

中世から類似の表現が確認できることわざで、古くは「すつる神あれば引きあぐる神あり」といいました。対句の形式で、「捨てる」の対義語として「拾う」の代わりに「助ける」とすることも江戸時代からみられ、今日でも併用されています。
この「神」は、用例をみてもわかるように、具体的には人をさしていうのがふつうです。私たちは、無意識のうちにこれを了解していて、日常の会話のなかで、ある程度特定の人物を念頭におきながら、このことわざを使うことが多いといえるでしょう。日本文化のなかでは、神が数多く存在し、現世の人間と連なっていることをあらためて感じさせる表現です。


中世の頃からある表現なんですね。



世の中には様々な人がいて、自分のことを見限って相手にしてくれない人もいれば、その一方で救いの手を差し伸べてくれる人もいる。
日本には八百万の神がいるのだから、不運なことや非難されるようなことがあっても、悲観することはない。

…という、故事ことわざ辞典の解説。


他に神さま、たくさんいると。
これもかなりの安心感。


悪い人のことも「神」と例えるあたりが仏教的なのでしょうか。もしかしたら、そっちが良いきっかけをくれた本物の「神さま」だったのかも知れない。




その「 拾う神さまに会いに行く」とは、



以前、某公園内の弁天様前にて虚無僧をしていたところ、すぐに公園監視員がやってきて排除され、今度は入口付近で立って吹いたらすぐにまたもや監視員がやってきて排除され、途方に暮れて公園入口に座っていたら、その「拾う神さま」ことH氏が、突然現れ、「楽器何やってるの?あそこでやったらいいよ」と、排除されない場所を教えてくれたのだ。



まさに捨てる神あれば拾う神あり。


尺八は袋に入れて仕舞っていたので、もしかしたら、遠巻きに見ていたのかも知れない。


H氏はこの公園の住人なのである。


夕方頃にこの公園に来る人は必ず、オレンジ色の帽子をトレードマークに、バンスリーや尺八を吹いたり、小さなギターを弾いたりしている彼を見かけたことがあるはずだ。




その彼が教えてくれた場所は、公園でもない、道路でもない、境界線の場所。
一歩ここに入れば安全地帯という、虚無僧にとってはとても有難い場所なのだ。



それ以来、定期的にそのH氏の演奏の前に私はここにやってきて辻立ちをすることになる。



私が吹いていると、H氏は時々洗濯や買い物帰りなどで通りかかったりして、立ち話をしたりする。話してみると偶然にも共通の知り合いがいたりして、世間は狭いものだと実感する。

H氏が公園で知り合った旅行中の尺八奏者のフランス人から突然私に連絡が来たりもした。



彼の演奏する曲は洋楽やクラシック、インド音楽などで、五線譜を見ながら尺八の演奏もしているのですが、最近は尺八の古典曲に興味があるそうだ。昔はレゲエバンドをしていたという彼の風貌からして大陸系のアジアンな音楽の方がどちらかというとしっくりくるのだけど…。なんと彼は中尾都山の遠い親戚であるとのこと。詳しくは、彼に話しかけたらきさくに色々話してくれると思います。


つい先日のこと。



目の前を通りかかった彼は、私の演奏の紫鈴法を隣でじっと聞いてくれていた。



演奏が終わると、



「いやぁ、感動しました。

あ、今、十五円しかないけど…。」



と、ガサゴソ。



私はいやいや!Hさんからは貰えないですよ!と慌ててかぶりを振りましたが、彼が感動してくれたなんて、私はとても嬉しかったのでした。



そんな小さな出来事でした。




ここに来ると、H氏は元気かな、と思いながら立つのであります。

それに加え、ご近所のお店の皆さんも我々を放置してくださり感謝です🙏


古典本曲普及の為に、日々尺八史探究と地道な虚無僧活動をしております。サポートしていただけたら嬉しいです🙇