これまでの『體源抄』は、前半はインドに始まる尺八の起源、猿の鳴き声に感銘を受けてその音を尺八に写したことや、骨の話。そして猿の鳴き声に関する漢詩。中盤は聖徳太子、慈覚大師円仁、平安時代後期の雅楽家清原助種、室町後期の雅楽家の豊原家、田楽師の増阿、聞阿のことなど、主に日本での尺八奏者の事が書かれていました。
今回は国会図書館所蔵『體源抄』630頁、一休禅師作といわれている詩から始まります。
この詩は、宇治吸江庵に住んでいたとされる朗庵が作者であるとか、朗庵と親交のあった一休宗純(1394-1481)の作ったものであるとされている。
両頭というのは、普化禅師の唱えた四打の偈「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打・・・」の事であるとも。
旅僧と楽阿弥という霊が出てくる狂言『楽阿弥』の台詞にもある。
国会図書館所蔵の『體源抄』630頁の尺八の作り方が書いてある部分、「ウタ口ノ上ノ両方ノカトヲイサゝカ切ヘシ」というのもここで解明しました。
ともかく尺八の音色の素晴らしさのことを詠っています。
そして、尺八の図にある説明書き。
一番左側の横向きに描かれた尺八
長興宿祢記(ながおすくねき)とは
官務家の小槻(大宮)長興の日記。応仁の乱後の朝幕関係、洛中洛外の動向などが記された、文明七年より十四年九月、文明十八年三月より文明十九年十一月までの小槻長興の日記。
作者の小槻(大宮)長興とは、
『長興宿祢記(ながおすくねき)』は国会図書館デジタルアーカイブで読めますが、探しきれない…。
こちらは『古事類苑』にある『體源抄』の写し。
豊原統秋の描いた尺八より分かりやすい…。
因みにこちらは、専門の笙の絵。
そして、さらに重ねて言いたいことがあるようです。
途中からカタカナがひらがなに変わるのが疑問ですが(今までずっとカタカナだった)、ま、それはさておき…
「増阿が東山霊山で図を直した」とあるのは、現在の、京都東山の時宗「霊鷲山正法寺」のこと。当時、身分の低い芸人などは上流階級社会に出入りするために、出家という形で体裁を整え時宗の法号を名乗ったとも。
「重ねて云う」とあるのは、先ほどの図の説明の前、国会図書館所蔵の『體源抄』629頁にも同じような事が書かれていた。
両方とも、尺八の伝承者について記載がある。
同じようなことを2度も書いているので、この部分を強調したかったのか…、その理由についてこれから読み直す一文を、複数の研究者たちの解釈とともに読み解いてみたい。
「当時田楽我道之様ニ申成事 一向無謂子細也」
「当時、田楽が我らが専門であるというような事を言っている事は、一向に子細謂れなき事である」
…ということで、複数の尺八研究本の翻訳の、ザッとした意味は、
田楽は我々が専門家であると言っていることに対して、それは言われなきことで抗議することだ。
というような解釈がなされている。
年代順にその部分を記すと、
保坂裕興著「十七世紀における虚無僧の生成」(1994年)
花田伸久著「虚無僧の天蓋」(1996)(九州大学学術情報リポジトリ)
上野堅實『尺八の歴史』(2002年)
泉武夫著「竹を吹く人々」(2013)
いずれも、田楽師に尺八の本家を奪われたが、こっち(豊原家)が正道だと主張していると解釈されている。
「豊原家のものであるという主張」
「統秋がこのように記述した背景には、田楽の者たちとの尺八を吹く職能をめぐる争いが存在した」
「豊原統秋が尺八が田楽の『我道』のものであることに異議をとなえる」
「増阿などは田楽を主としたようで尺八は田楽の楽器のように触れ回っていた」
「楽家側から田楽側に中世尺八の本流を奪われたかのような状態」
ところが『體源抄』そのものに、上記のような意味合いが私には感じられない。「職能をめぐる争い」はどこか別の書に書かれているのだろうか。
要は、「伝承経路」を2度に渡って説明書きされている事に、豊原家は田楽という以前は賤民であった人々に尺八を伝授したのだが、彼らはその地位を築き有名になり、今や尺八で身を立てているということに対する、抗議の意味合いが含まれているということだろうか。
ただし、この『體源抄』の作者、統秋と田楽師聞阿とは朝夕と会うほどに仲が良く、統秋は彼の演奏をも二度に渡って褒めそやしている。
「一向無謂子細也」の訳し方で、「もっぱら謂れなきことで抗議する」となるか、「一向に差し支えないこと」となるかで意味が真逆になってしまう。
そもそも量秋自身(1369生−1380年代没)が尺八を誰から伝授されたのか不明なのでありますが。量秋が活躍した頃の尺八に関する史料はちょうど空白の時代で、彼の生まれる約40年前、1330年成立の『吉野拾遺』から、1408年の山科 教言(やましな のりとき)の日記『教言卿記』まで空白なのだ。
この頃は色んな職種の人々に尺八は演奏されていたので、統秋が言いたかったのは、田楽は豊原家からの伝承なので正道ですよ、という意味ではないだろうか。
『世子六十以後申楽談儀』(1430年) 通称『申楽談儀』という世阿弥の芸論を伝える書の中にも「増阿が尺八を吹き鳴らし」と、猿楽の伝書の中にも登場する増阿や、頓阿弥も一休禅師の『狂雲詩集』にも記されているように、その頃有名であった彼らは豊原家が伝授したんですよという自慢にも近い気がする。
間違っていればご指摘頂きたい。
最初から一つ一つ読み解いてみた結果、このように解釈した次第です。
そして、まだ続きます。
花押(かおう)とはサインのようなもの。
これで終わりかと思いきや、最後にまた尺八の図。
全部くっついてる。
最後の頁。
「大神景盆」とは、恐らく「山井景光」のことと思われます。
なんと、山井景光という雅楽家が、量秋の生まれる前にすでに五孔の尺八の図を書いている。量秋は1369年生れなので、その前にはすでに五孔の図があったようです。
篳篥や竜笛は穴の数が多いので、恐らく五孔の一節切の類いかと思われます。
統秋、なんでこれ一番最初に載せないかな…。
これが最大の疑問点として残ることとなりました。汗
と、まぁ中世の頃のことをあれやこれやと読み解いてきました。
雅楽書『體源抄』を読み解く!は、これで終わりです。
全文読んでみると知らなかったこと盛りだくさんでした。
まだまだ探求不足ではありますが、深堀りしだすとキリがないのでこの辺で…。
古典尺八楽愛好会でのミニ講座で『體源抄』其の一を取り上げた時に、相良保之先生の元で一節切の勉強をされている高澤清峰氏と、いつもお世話になっている高橋慈遊氏がご一緒に、来てくださいました。
色々お話を聞かせて頂き、高澤氏が作成した一節切の楽譜を古典尺八楽愛好会に寄贈いただきました!
高橋氏にも貴重な楽譜など、ご寄贈いただきました。
この場をおかりして感謝申し上げます🙏
そして、ちょうどこの日から古典尺八楽愛好会に中国出身の方がご参加くださり、『體源抄』の前半部分の漢文詩を読んでもらえるというラッキーなこともありました。
感謝です🙏✨