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雅楽書「體源抄」の尺八☆其の三📖最後のまとめ

これまでの『體源抄』は、前半はインドに始まる尺八の起源、猿の鳴き声に感銘を受けてその音を尺八に写したことや、骨の話。そして猿の鳴き声に関する漢詩。中盤は聖徳太子、慈覚大師円仁、平安時代後期の雅楽家清原助種、室町後期の雅楽家の豊原家、田楽師の増阿、聞阿のことなど、主に日本での尺八奏者の事が書かれていました。


今回は国会図書館所蔵『體源抄』630頁、一休禅師作といわれている詩から始まります。



『體源抄』国会図書館所蔵


又自両頭テ切断後 
三千里外絶知音 又云狂言云シ人作之
尺八節高円口連 彼尋出處宇治邊 
一聲吹落兩棲月 百万軍中聞不眠  


この詩は、宇治吸江庵に住んでいたとされる朗庵が作者であるとか、朗庵と親交のあった一休宗純(1394-1481)の作ったものであるとされている。
両頭というのは、普化禅師の唱えた四打の偈「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打・・・」の事であるとも。

旅僧と楽阿弥という霊が出てくる狂言『楽阿弥』の台詞にもある。

あの朗安寺の尺八の書にも、「両頭を切断してより此のかた、尺八寸の内、古今に通ず、吹き起す無常心の一曲、三千里外に知音を絶す」と作られたり。


国会図書館所蔵の『體源抄』630頁の尺八の作り方が書いてある部分、「ウタ口ノ上ノ両方ノカトヲイサゝカ切ヘシ」というのもここで解明しました。

ともかく尺八の音色の素晴らしさのことを詠っています。



そして、尺八の図にある説明書き。

黄鐘調切図 
量秋本尺八ト云テ切テ于今在之此図ヲ写之者也
〈訳・量秋本尺八と云て、于(ここに)之(これ)今在り、此の図を写す〉

下ノ穴ヨリ下の長サ カノ二寸六分ナリ。但、竹ノスアヒニ少シ心アルヘシ

裏穴ヨリ上ノ寸、カ子ノ三寸九分ナリ
已上《いじょう》大概如此かくのごとし。上下ハ竹ニヨルヘシ。穴ノ大サハこの丸サニハアルへカラス。

盤渉調切図
同作
(寸法の記載省略)


壱越調切図
同作当家用図也ツゝ音ノ上ハ皆開テ 甲乙ニ合ナリ 当時ノ尺八ニ替取第一ナリ
〈訳・同作、当家に用いる図也、ツゝ音の上は、皆開て甲乙に合なり。当時の尺八に替る所第一なり〉

双調切図
此図ハ当時用ナリ。当家ノ図ニハアラス

又黄鐘調切図
是者増阿図ノ後頓阿弥少穴ノ内ヲトル 又聞阿近代少直之当時天下一同ニ用之歟仍図之
〈訳・是者増阿図の後、頓阿少し穴の内をとる、又聞阿近代少し之を直す。当時天下一同にこの図によって之を用いたか〉

平調切図



一番左側の横向きに描かれた尺八

第一孔(今の第四孔)を真懐、次を角録、賢仁、 舌捍。裏の一孔を後言(「言」を三字合わせ)

右尺八穴名ハ 長興宿祢記之ト畢  


長興宿祢記(ながおすくねき)とは
官務家の小槻(大宮)長興の日記。応仁の乱後の朝幕関係、洛中洛外の動向などが記された、文明七年より十四年九月、文明十八年三月より文明十九年十一月までの小槻長興の日記。


作者の小槻(大宮)長興とは、

大宮長興 おおみや-ながおき 1412-1499 室町時代の官吏。 応永19年生まれ。小槻(おづき)氏一族。永享4年左大史(さだいし),文安2年官務・氏長者となるが,同族の壬生晨照(みぶ-あさてる)の訴えで免ぜられ,宝徳元年再任される。のち治部卿。幕府の要人とも接し,近衛(このえ)家,一条家にもつかえた。明応8年10月24日死去。88歳。初名は時繁。号は喜称軒。日記に「長興宿禰(すくね)記」。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus


『長興宿祢記(ながおすくねき)』は国会図書館デジタルアーカイブで読めますが、探しきれない…。




『古事類苑』

こちらは『古事類苑』にある『體源抄』の写し。
豊原統秋の描いた尺八より分かりやすい…。


因みにこちらは、専門の笙の絵。




そして、さらに重ねて言いたいことがあるようです。

『體源抄』国立国会図書館所蔵

重又云
右図如此注之、当時田楽我道之様ニ申成事一向無謂子細也。増阿ト申者ハ量秋弟子ニ成て吹之侍リ。量秋早世之後弟子敦秋ニ近付て、其後東山霊山鷲尾にて図を直し侍、雖然調子事者敦秋悉指南し畢。其吹様も大方同様なれとも四あけとて指ハ三あけて双調にハ合なりと畢三指をあけたるハ下无調にて侍る也。仍聞阿音律に絶妙の者也。其吹様当時の人に相違し侍事あまたあり。其口伝音律に相叶心深重也。常に来て吹し事難忘者なりしそかし。末代ありかたき事と覚侍る。

〈訳〉
重ねて云う
右の図は、之のとおりである。当時(今現在の意でもある)田楽は我らが専門であると言っていたのは、もっぱら差し支えないことである。(注・他の解釈あり) 増阿という者は、量秋の弟子になり尺八を吹いていた。量秋が早世しその後、弟子敦秋と親しくなり、その後、東山霊山鷲尾にて図を直したのであります。けれども調子の事は敦秋に残らず指南した。その吹き方も大方同じであるが、四孔あけて双調には合わせ、三の指をあけて下無調であります。尚、聞阿は音律に絶妙の人であります。その吹き様は、当時の人とは抜きんでて優れていた。その韻とリズムは、趣が深かった。よく来て吹いた事、忘れがたき者だということだ。末代まで珍しい事と思われる。


途中からカタカナひらがなに変わるのが疑問ですが(今までずっとカタカナだった)、ま、それはさておき…

「増阿が東山霊山で図を直した」とあるのは、現在の、京都東山の時宗「霊鷲山正法寺」のこと。当時、身分の低い芸人などは上流階級社会に出入りするために、出家という形で体裁を整え時宗の法号を名乗ったとも。



「重ねて云う」とあるのは、先ほどの図の説明の前、国会図書館所蔵の『體源抄』629頁にも同じような事が書かれていた。

他流ノ敦秋モ量秋弟子ナリ。田樂増阿ト云シモノハ量秋弟子ナリ。早世ノ後ハ敦秋ニ習テ我圖ヲ敦秋ニ云アワセテ定テ畢。當世ハヤル尺八ハ此圖ナリ。其後又頓阿彌吹之。實ニハ聞阿ト云シ者調子ニキトクナル者ナリ。自身サトリシレル事悉道ニカナヒ侍、予ニ近付テ因縁古事皆傳之。朝夕之知己ニテアワレフカキ者ナリシ。

〈訳〉
他流の敦秋あつあきも、量秋の弟子である。田楽の増阿という者も量秋の弟子である。量秋の早世の後、私は敦秋に習い、我図を敦秋に言い合わせ定める。当時流行っていた尺八はこの図のもの。その後、また頓阿弥も尺八を吹いている。実際、聞阿という者は、音律に奇特な(才能のある)者である。自身もわきまえ道を極めている。私は彼と親しくなり、由縁や古事を皆伝えた。朝夕と会って親しい間柄となったが、彼は趣深い者である。


両方とも、尺八の伝承者について記載がある。

同じようなことを2度も書いているので、この部分を強調したかったのか…、その理由についてこれから読み直す一文を、複数の研究者たちの解釈とともに読み解いてみたい。

 

「当時田楽我道之様ニ申成事 一向無謂子細也」


  • 【一向】いっ-かう①ひたすら。いちずに②すべて。ことごとく。③〔多く下に打消の語を伴って〕さっぱり。まるで。④いっそのこと。

  • 【無謂】いわれない 理由がない

  • 【子細・仔細】し-さい ①(事の)いわれ。わけ。②差し支え。異論。異議。


「当時、田楽が我らが専門であるというような事を言っている事は、一向に子細謂れなき事である」


…ということで、複数の尺八研究本の翻訳の、ザッとした意味は、


田楽は我々が専門家であると言っていることに対して、それは言われなきことで抗議することだ。

というような解釈がなされている。


年代順にその部分を記すと、

保坂裕興著「十七世紀における虚無僧の生成」(1994年)

この尺八を吹く職能と芸能者たちの関係は、楽所で笙をつかさどる豊原家の当主統秋が『體源抄』(1512)の一節に具体的に語られる。(『體源抄』仰尺八切事賀茂切トテ侍の部分が入る)
田楽の者たちが尺八を吹く職能が自分たちのものであると主張していたのに対し「賀茂切」という尺八の設計図がもとはといえば豊原家のものであるとし、田楽の増阿・頓阿・聞阿らは、豊原家の量秋・弟子の敦秋・豊原統秋から、設計技術や調子、そして因縁古事を伝えられたのだと主張するのである。統秋がこのように記述した背景には、田楽の者たちとの尺八を吹く職能をめぐる争いが存在したのであろう。ここで注目したいのは、統秋がこのような主張をする際に、設計図が豊原家のものであることを強調している点である。当該期には、尺八を作る技術と吹く職能がおそらく未分離だったのであり、豊原家の組織や田楽の座などの芸能集団の中で、設計技術が重要なものとして保持・管理されていた事が窺われるのである。

保坂裕興著「十七世紀における虚無僧の生成」


花田伸久著「虚無僧の天蓋」(1996)(九州大学学術情報リポジトリ)

田楽が尺八を「我道」のものと言っていることに関して、統秋はそれに異議を唱えている。

古代に雅楽寮で用いられた古代尺八が平安期楽所の設立に際して、そのまま楽人に受け継がれたのかも知れない。 既に述べたように、その頃書かれた「源氏物語」(末摘花の巻)に触れられている尺八は御所の楽人とともに、若い貴人達によって玩ばれたことを物語っている。
しかし、それも「今鏡」に記されているように、一一五八年には「ふきたへたるふえ」となっていた。
豊原統秋が尺八が田楽の「我道」のものであることに異議をとなえる理由は此辺りにあるのかも知れない。しかし、 統秋の異議には問題がないわけではない。 
統秋が挙げる「量秋」が田楽の増阿弥に教えた尺八は既に古代尺八ではなく、その形は異なったものである。 

花田伸久著「虚無僧の天蓋」
(九州大学学術情報リポジトリ)


上野堅實『尺八の歴史』(2002年)

田楽の芸能者たちが盛んに尺八を吹いていて、彼らは、尺八はもともと自分たち田楽の芸能であると主張していたことなどが分る。

上野堅實『尺八の歴史』


泉武夫著「竹を吹く人々」(2013)

『體源抄』統秋によれば、豊原家の故量秋かずあき(三代前)が尺八に堪能であった。この人物の流れから、弟子の増阿ぞうあ、頓阿弥、聞阿もんあなどといった尺八吹きが輩出し、当世のはやりとなっていると語っている。増阿などは田楽を主としたようで尺八は田楽の楽器のように触れ回っていたようです。
田楽は、農耕儀礼に由来し、中世初期にもてはやされた芸能ですが、悪霊退散、邪気払いの呪術的意味合いがあったとされる。(安田治郎『寺社と芸能の中世』)室町時代には猿楽に圧倒されていくのだが、完全にはなくならなかった。尺八がもともと田楽に用いられていたわけではない。統秋は自分が受け継いだ雅楽系の尺八こそが正当だと考えていて増阿の振る舞いを非難している。
音楽を家業としていた楽家(豊原家)では、余技的に尺八をたしなんでいた。そして組織的な系統が形成されないままに楽家側から田楽側に中世尺八の本流を奪われたかのような状態。

泉武夫著「竹を吹く人々」


いずれも、田楽師に尺八の本家を奪われたが、こっち(豊原家)が正道だと主張していると解釈されている。


「豊原家のものであるという主張」
「統秋がこのように記述した背景には、田楽の者たちとの尺八を吹く職能をめぐる争いが存在した」
「豊原統秋が尺八が田楽の『我道』のものであることに異議をとなえる」
「増阿などは田楽を主としたようで尺八は田楽の楽器のように触れ回っていた」
「楽家側から田楽側に中世尺八の本流を奪われたかのような状態」


ところが『體源抄』そのものに、上記のような意味合いが私には感じられない。「職能をめぐる争い」はどこか別の書に書かれているのだろうか。

要は、「伝承経路」を2度に渡って説明書きされている事に、豊原家は田楽という以前は賤民であった人々に尺八を伝授したのだが、彼らはその地位を築き有名になり、今や尺八で身を立てているということに対する、抗議の意味合いが含まれているということだろうか。
ただし、この『體源抄』の作者、統秋と田楽師聞阿とは朝夕と会うほどに仲が良く、統秋は彼の演奏をも二度に渡って褒めそやしている。

「一向無謂子細也」の訳し方で、「もっぱら謂れなきことで抗議する」となるか、「一向に差し支えないこと」となるかで意味が真逆になってしまう。

そもそも量秋自身(1369生−1380年代没)が尺八を誰から伝授されたのか不明なのでありますが。量秋が活躍した頃の尺八に関する史料はちょうど空白の時代で、彼の生まれる約40年前、1330年成立の『吉野拾遺よしのしゅうい』から、1408年の山科 教言(やましな のりとき)の日記『教言卿記』まで空白なのだ。

この頃は色んな職種の人々に尺八は演奏されていたので、統秋が言いたかったのは、田楽は豊原家からの伝承なので正道ですよ、という意味ではないだろうか。
世子六十以後申楽談儀ぜしろくじゅういごさるがくだんぎ』(1430年) 通称『申楽談儀』という世阿弥の芸論を伝える書の中にも「増阿が尺八を吹き鳴らし」と、猿楽の伝書の中にも登場する増阿や、頓阿弥も一休禅師の『狂雲詩集』にも記されているように、その頃有名であった彼らは豊原家が伝授したんですよという自慢にも近い気がする。
素人的(感情的?)な推察で笑われてしまうかもしれませんが、間違っていればご指摘頂きたい。私には貴族階級の人々の心情というものは全く想像できないので、間違っているのかもしれません。



そして、まだ続きます。


南無妙法法華經   豊原朝臣統秋 花押


花押(かおう)とはサインのようなもの。



これで終わりかと思いきや、最後にまた尺八の図。

『體源抄』国立国会図書館所蔵

全部くっついてる。



最後の頁。

『體源抄』国立国会図書館所蔵


右図者大神景盆始テ記之畢

〈訳〉
右の図は大神景盆が最初にこれを記す



「大神景盆」とは、恐らく「山井景光やまのいかげみつ」のことと思われます。

1273-1354 鎌倉-南北朝時代の雅楽家。
文永10年生まれ。京都方。大神(おおが)流笛をつたえ,雅楽頭(うたのかみ)となる。後醍醐(ごだいご)天皇の笛の師をつとめ,笛譜の「竜笛要録譜」を撰した。文和(ぶんな)3=正平(しょうへい)9年11月8日死去。82歳。京都出身。本姓は大神。

デジタル版 日本人名大辞典+Plus


なんと、山井景光という雅楽家が、量秋の生まれる前にすでに五孔の尺八の図を書いている。量秋は1369年生れなので、その前にはすでに五孔の図があったようです。
篳篥や竜笛は穴の数が多いので、恐らく五孔の一節切の類いかと思われます。

統秋、なんでこれ一番最初に載せないかな…。


これが最大の疑問点として残ることとなりました。汗



と、まぁ中世の頃のことをあれやこれやと読み解いてきました。

雅楽書『體源抄』を読み解く!は、これで終わりです。
全文読んでみると知らなかったこと盛りだくさんでした。

まだまだ探求不足ではありますが、深堀りしだすとキリがないのでこの辺で…。



古典尺八楽愛好会でのミニ講座で『體源抄』其の一を取り上げた時に、相良保之先生の元で一節切の勉強をされている高澤清峰氏と、いつもお世話になっている高橋慈遊氏がご一緒に、来てくださいました。

色々お話を聞かせて頂き、高澤氏が作成した一節切の楽譜を古典尺八楽愛好会に寄贈いただきました!

内容量がすごい。

高橋氏にも貴重な楽譜など、ご寄贈いただきました。
この場をおかりして感謝申し上げます🙏


そして、ちょうどこの日から古典尺八楽愛好会に中国出身の方がご参加くださり、『體源抄』の前半部分の漢文詩を読んでもらえるというラッキーなこともありました。
感謝です🙏✨



参考文献
保坂裕興「十七世紀における虚無僧の生成」
井出幸夫「中世尺八追考 伝後醍醐天皇御賜の尺八を中心に」高知大学学術情報リポジトリ
相良保之「一節切の調べ 教訓抄と體源鈔の尺八」虚無僧研究会機関誌「一音成仏」第四十四号
相良保之「一節切『短笛秘傳譜』の吹奏法」虚無僧研究会機関誌「一音成仏」第四十三号
花田伸久「虚無僧の天蓋」(九州大学学術情報リポジトリ)
泉武夫「竹を吹く人々」
上野堅実「尺八の歴史」
山口正義「尺八史概説」
値賀笋童「伝統古典尺八覚え書」




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