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コムジョの尺八歴史探訪📖

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尺八の歴史をマニアックに探究中✐ 虚無僧の実態を探ります!
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#日本の歴史

尺八空白の100年間に何があったのか!?

鎌倉時代(1200年代半ば)から室町時代(1300年代半ば)にかけてのいわゆる中世 に尺八という楽器のことが記された史料が無いのだそうだ。 前回の世阿弥の芸談を筆録した能楽の伝書『世子六十以後申楽談儀』も1400年代に書かれています。それ以前の鎌倉時代に書かれた「教訓抄」(きょうくんしょう)(1233成立)には「今は目闇法師・猿楽之を吹く」とある。 【教訓抄】とは、 詳しくはこちら↓ まずは、尺八研究家の本に記載された文章を抜粋すると… 山口正義著 『尺八史概説』(

創始伝説「虚鐸伝記」を読み解く 其の三☆寄竹登場!

さて、前回は法燈国師(心地覚心)が中国、宋に行き、張伯の子孫、張参と仲良くなり、虚鐸を教えてもらい日本に帰国した。というところまでやりました。   まさに、日中(日宋)友情物語。   そして今回は、寄竹の登場です! 寄竹とは法燈国師の弟子。   京都明暗寺の開祖で、虚竹のこと。 虚霊山明暗寺発行の『虚霊山明暗寺』に記載された、明暗寺安牌並びに法系世代に拠ると、虚竹は開祖となっています。 心地覚心も学心となっているし、虚竹も寄竹と『虚鐸伝記』では名前は変えられ

明暗寺系創始文献「虚鐸伝記」を読み解く!其の一

普化尺八、虚無僧尺八の始まり創設のことが書いてある文献の一つが「虚鐸伝記」(漢文)と言われている。それに注解されたのが「虚鐸伝記国字解」(日本語、かな文字に解釈した本)。 そして、この文書は1900年初頭に、偽書であるという指摘がなされ、今ではそれが通説になっています。     『虚鐸伝記国字解』の偽書の可能性は栗原広太が「尺八史孝」大正7年(1918)の中で指摘し、断定したのは中塚竹禅「琴古流尺八史観」昭和54年(1979)。 理由は、虚鐸伝記の年代の記入が無く、著

関東系虚無僧寺院☆一月寺・鈴法寺の開創縁起を読み解く!

明暗寺系列の縁起本、『虚霊山明暗寺縁起』(1735)と『虚鐸伝記』(1795)によると、法燈国師とその門下の寄竹(のち虚竹)が普化尺八の元祖となっている。 ところが、関東系虚無僧寺院、一月寺・鈴法寺縁起には、寄竹の名前は一切無い。では誰が開祖なのか?! それは江戸中期の明和年間(1764-72)に宮地一閑がまとめ、文化10年(1813)開版された『尺八筆記』に書かれている。 今回は、その『尺八筆記』から開創縁起部分を抜粋し、読み解いていきます。 著者、 宮地一閑

『仙石騒動』其の六! 川柳、連歌、狂歌特集📖

天保の頃に起きた出石藩による御家騒動『仙石騒動』を探求する!シリーズ其の六です。 『仙石騒動』にまつわる史料は、国立公文書館の『出石紀聞』や、平戸藩の松浦静山が書いた随筆『甲子夜話』に見ることができますが…、 その中に沢山の川柳、連歌、狂歌、ちょんがれ等、風刺に満ちた作品も沢山残されており、「百千を以て算ふべし」で好奇の人が編集して二大冊となったとか。 今回は、川柳、連歌、狂歌をご紹介🎵 「尺八」の文字の入った句や、神谷転は勿論のこと、一月寺の愛璿もひそかに登場しますよ

『仙石騒動』年表と相関図にまとめてみた。

仙石左京が獄門になるまで… 『仙石騒動』とは、但馬出石藩(五万八千石)に起きた藩政改革を巡っての守旧派と改革派の対立事件、いわゆる御家騒動。 このややこしい(く感じる)お家騒動を年表で追うことにしました。 時は文政四年、仙石家九代当主仙石政美の治世下の頃。 1821年 仙石左京が大老兼勝手方掛りに任じられる。 →財政の立て直し。上米、生糸専売、領外商人の領内行商禁止などの政策などを進める。 1823年 対抗する守旧派が左京一派の追い落としをはかる。 →藩士らの不満を

『慶長之掟書』其の四!☆その後、書き加えられた条目を読み解く!

虚無僧が虚無僧でなり得た、家康お墨付きの掟書を探求する! 『慶長之掟書』シリーズ、其の四です! 1〜3のシリーズはこちらをご参照下さい↓ 其の一 初期の掟書を読み解きます。 其の二 『掟書』が承認(黙認)されていった経緯を探ります。 其の三 第一条だけは本物?!「虚無僧は武士なんだから同格に扱え」との掟書きは一体どんな理由で生じたのかを探ります。 この掟書のおかげで、虚無僧は治外法権的な立場を主張し続けてきたわけですが、江戸時代初期から後期までのおよそ200年の間

虚無僧にとって何にも換え難い⁉️金科玉条の『慶長之掟書』とは!

『慶長之掟書(けいちょうのじょうしょ)』とは、かの有名な徳川家康が慶長十九年(1614年)に普化宗に付与したとされる掟書。 因に、掟書(おきてがき・じょうしょ)というのは、掟(法律・規則)を記した文書。 規則や法律、または家訓のようなものですね。それを四字熟語で表現しているのが「金科玉条(きんかぎょくじょう)」。 意味はこちら↓ 最近は、あまり使用されなさそうですが、 現代使用例を考えてみますと… てな感じでしょうか。 この金科玉条という言葉は、尺八の歴史資料の古

暮露ってだれ?『七十一番職人歌合』を読み解く!

暮露と文学 其の一! 中世の頃、虚無僧の前身といわれる「ぼろぼろ」「暮露々々」「暮露」という人々が存在しました。 彼らは一体どのような人々であったのか⁉️ 『暮露』の名称は以下に記録があります。   十四世紀初め『徒然草』では「ぼろぼろ」「ぼろ」(始原として「ぼろんじ・梵字・漢字」) 十四世紀頃の『暮露々々のさうし』では「暮露々々」「暮露」 十六世紀初めの『七十一番職人歌合』では「暮露」     ここで簡単に…、 「暮露」の特質 ★形姿は小刀所持、高下駄

普化宗成立の証し?『高野山文書』の中の『暮露薦僧本則』とは?!

普化宗とは、虚無僧が属した宗派のことなのですが、その始まりは、はっきりとはしていません。 中世頃に発祥した薦僧、いわゆる虚無僧の前身で、彼らは菰で出来た御座(敷物)を持ち歩き「尺八吹奏を芸能とする仏教系の乞食芸能者」ということで、それらが集団化し、1600年代には虚無僧の母体である普化宗の原形が整っていったわけですが、一体いつ頃から『普化宗』という宗教団体になったのでしょうか。 因みに宗祖であるはずの普化禅師は弟子をとっていないので、普化宗は唐代から引き継がれているわけで

遊興系尺八奏者たち☆『四条河原遊楽図屏風』より

賀茂の河原は刑場であった。名のある武将も、名も無き民も、数しれぬ人々がここで首を打たれた。また葬う人のない死体もここに運ばれ捨てられた。 刑場の河原には世間から賤しめられている人々が小屋をかけてすんでいた。すなわち河原者であった。他にすむべきところがないからであった。 こうした河原者のなかに傀儡師や曲芸師や、その他見世物の芸人たちがいた。小屋をかけて興行をいとなむ。娯楽を求めて京の内外の人が見物に集まった。その中心が賀茂の四条河原であった。 上の解説と、画像は『日本美術全集