ウンコ漏らせど鉄面皮

社会生活において、ウンコを漏らすというのは致命的である。どんな立派な人間でも、ウンコを漏らしちゃおしまいである。どんなに格調高雅で美しい文章を書ける人間がいたとしても、ウンコを漏らしちゃおしまいである。
この人の書く文章は品があるけれど………、でもウンコ漏らしたのよね。
でも、より始まる付け加えにより全ては無になる。さらに、ウンコ漏らしたくせに、となると最悪である。
ウンコ漏らしたくせに、鹿爪らしい文章書いて気取ってら!
こうなるといよいよもって本当にジ・エンドである。ウンコを漏らしたことにより上品なはずの文章が鼻につくようになってしまったのだ。ウンコだけに鼻につくなんて冗談を言ってる場合ではない。本当にそういうことは有り得る。
とりわけ学生時代というのはそれが顕著であり、ウンコを漏らすとによりクラスの発言権、地位を失う。快活な子も、たった一発の脱糞によって翌日から卑屈なガキに早変わりする。ではそれを避けるためにはどうしたらいいか? それを俺の経験も交えて書いていこうと思う。

まず、ウンコを漏らす、ということの定義からはっきりさせよう。なにをもってウンコを漏らすとするのか。
一つは、当たり前だが、肛門からウンコが排泄され下着に付着した場合である。この定義づけでいくと、俺は小学校一年のときに二回、小学校三年のときに一回、中学二年のときに一回、ウンコを漏らしていることになる。稀代のクソ漏らし、末代までの恥、むしろ俺をもって末代であるほどの粗相の多さである。だが二つ目の定義であればどうだろう?
その二つ目とは、下着内に脱糞したことを大衆や世間に認識されたときにはじめてウンコ漏らしとなる、という定義である。俺はこっちの定義を推したい、というか、俺の名誉と尊厳のためにその定義づけでなくてはならないなくてはならない! この場合だと前者の定義の状態、単純な脱糞のみではウンコを漏らしたという状況は成立しない。ウンコで下着が汚れているということを、大衆、世間が認識してはじめてウンコ漏らしとなる。つまりこの定義づけなら俺はウンコなど一度たりとも漏らしたことはない。天地神明に誓えるであろう。
だいぶ昔に本で(もしかすると学生時代の国語のテキストの読み取り問題の文だったかもしれないが)、公園の木が落雷によって倒れたとする、しかし、それを誰も認識しなければ公園の木は倒れていないのと同じである、みたいな文を読んだ記憶がある。うろ覚えな上に、これが哲学なのか量子力学なのかちょっと俺にはわからんが、この論法をウンコにも当てはめるのである。俗っぽく言うなら、嘘は嘘だとバレなければ嘘じゃない、のようなことだ。
ウンコを漏らすことによる損失とはなんだろうか? 下着が汚れること、くさいこと、いろいろあるだろうが、そんなものは取るに足らない問題である。一番問題なのは、世間からウンコ漏らしのレッテルを貼られるということである。つまり最大の損失とは尊厳を失うことに他ならない。人間とは他人の粗相の記憶はしっかり覚えているものだ。
小学一年の五時間目にゲロを吐いたMちゃんを俺はいまだに忘れない。
小学二年の始業式の日に小便を漏らして、大声でわっと泣き出したTくんを俺はいまだに忘れない。
このようにどんなに幼い頃でさえ他人の粗相は忘れない。これが大人となるとその衝撃たるや驚天動地である。職場でウンコを漏らし、それを職場の人間に認識されようものなら、それはこの上ない地獄であり屈辱だ。翌日の彼らはつとめて平静を装って接してくれるだろうが、肚の中ではウンコ漏らしたやつだと嘲っているかもしれない。それが負担になり、疑心暗鬼に陥り、果ては神経衰弱である。
しかしながら逆に言えば、肛門からウンコが排泄されて下着を汚したとて、それが大衆、世間に一切露見しなければいいのだ。そうなれば、(後者、二つ目の定義において)ウンコは漏らしていないのである、俺のように。
そのためにやるべきことはなにか? それはケツでウンコをしっかり捕まえることだ。双丘でウンコを挟むことだ。決してズボンの裾などからウンコを転がしてはならない。そして家まで持ち帰るのだ。運搬だ。俺はこの方法で何度も修羅場をくぐり抜けた。

俺がはじめて人前で脱糞したのは小学一年生のとき、俺の家の庭で当時仲が良かったDくんと遊んでいた夕方である。Dくんの親が迎えに来るまで俺の家の庭で遊ぶことになって、俺たちはトンボなど追いかけていた。トンボ捕まえるときイキんだのがいけなかった。俺は脱糞した。しかし俺はそのままトンボを捕まえた。Dくんとはしゃいだ。そんなことをしているうちに、Dくんはお母さんが迎えに来て、Dくんは俺に手を振って帰っていった。俺はDくんにも、Dくんのお母さんにも脱糞したことを知られていないので、ウンコは漏らしてない。

次に脱糞したのは同じく小学一年の体育館だった。俺の小学校では、選ばれた六年生数人が演劇をやり、五年生以下がそれを合唱などで盛り上げるという一風変わった行事があった。俺はその発表会本番の朝に、脱糞した。体育座りで待機しているときの脱糞であった。俺の後ろは六年生で、かなりざわついていた。なんかウンコの臭いしねえか? と。しかし俺は堂々としていた。涼しい顔をしていた。むしろその六年生たちと、誰か屁でもこいたんですかねえ、などとへらへら談笑して、横の同級席には、お前ウンコ漏らしたんじゃねえの? などと冗談めかして言っていた。数時間にわたる劇を終え、帰りの会を終え、そのまま家に帰った。これも後ろの六年生にも、隣の同級生にも脱糞は知られてない。しかし臭いは認識されたので、今思い返すと人生最大のピンチだったかもしれない。

お次は小学校三年のときである。俺はその時分から辛い食べ物に強い子供だった。大人が辛くて食べられないものも平気で食べられる子供だった。ある金曜日、家族で近所の中華屋に外食に行った。その中華屋の店主に気に入られたのがいけなかった。コレ大人デモ食ベラレナイヨォ! と中国人の店主は言って、次々とサービスで辛いものを俺の前に運んできた。俺はそれを平気な顔でたいらげ、店主は驚愕し、さらに辛いものを運んでくる。最後の方なんて料理の体をなしていないような、香辛料そのままみたいなものを食わされた。辛さ的には平気だったのだが、胃腸へのダメージが深刻だったのだろう。翌る土曜日、習い事のフットサルの帰り道に、俺は脱糞した。友達と並んで帰っている途中だった。俺はウンコをケツに挟んだまま、朗らかに、にこやかに、爽やかに、健やかに、しなやかに、談笑しながら帰った。これも友達に脱糞を認識されていないのでセーフだ。

時は進み、次は中学二年生である。俺はその日、朝から腹の調子が悪かった。二時間目で腸内キャパは限界に達し、授業中トイレに行くことにした。俺はなるだけ出先でウンコをしない主義であって、これのせいで今までの脱糞遍歴があるのだが、中学生ともなるとさすがに妥協を覚えたのだ。俺はみんなが授業を受けている階で脱糞音など響かせたくなかったので、教室のある三階から、通常誰もいない一階(俺の中学は一階は昇降口と保健室や技術室、多目的室、それからトイレのみだった)のトイレまで降りていってウンコをすることにした。しかしそれがいけなかった。間に合わなかった。俺はトイレに向かう道中、志半ばにして、脱糞した。階段の踊り場での脱糞だった。これはかなりの修羅場だった。俺は踊り場でケツを押さえて、しばらく茫然自失と立ち尽くしてしまった。中学生ともなると、このままやり過ごすのは無理がある。ウンコは臭いで必ず露見する。しかもまだ二時間目ときた。中学生というのは、人の気持ちを考えず目先の娯楽のために他人の尊厳を踏みにじることを厭わない悪魔である、鬼畜である、外道である。やつらは戯れに臭いの出処探しをするに違いない。脱糞したのが俺じゃなけりゃ、俺だって喜々と犯人探しに興じる。だが脱糞したのは俺なのだ。ウンコ漏らしのレッテルを貼られたら、俺は死ぬる。中学生は感受性と自意識の怪物である。前髪が決まらないだけで、鼻の下にニキビができただけで死ぬ騒ぎなのだ、脱糞など言語道断である。死ぬる。俺は踊り場で考えた末、妙案を思いつき、保健室に向かった。先生、具合が悪いのです、こんなことは初めてで、頭がくらくらするのです、貧血ではないと思います、ああ、吐き気もしてきました、俺は保健室の先生に訴えた。保健室の先生がエチケット袋を作ってくれて、俺はそれにゲロを吐いた。吐き気などなかったが気合で吐いた。俺は健康な少年だったし、体調不良で学校を休んだこともなかったため担任はたいへん心配してくれ、俺はめでたく早退となった。全て計画通りである。俺はそのまま帰路についた、ケツにウンコを挟んだまま、近所のババアに挨拶などして。これも誰一人として俺の脱糞を認識した者はいないので、俺の勝利である。

下着の中のウンコとは爆弾である。尊厳破壊爆弾である。その爆弾は大衆の認識によって起爆する。それが、ウンコを漏らす、ということだ。
なので脱糞したときこそ脱糞してない立ち振る舞いをすることで、ウンコを漏らす、ということは回避できるのだ。脱糞したからとて、脱糞したなりの表情、立ち振る舞いをしなくてはいけない決まりはない。トイレ以外で脱糞した際に人は焦る。たしかに焦るが、下着が汚れているときこそ心は清らかでなければならない。荒涼たる下着を身に着けながら、心中は凪、これが鉄則である。
そもそも数ある汚物系の粗相、失禁の類を思い浮かべてほしい。脱糞というのはいかにもこの世の終わりの絶望であるかのように思われるが、事実そうでない。大衆の面前で嘔吐すれば隠すのは困難である。小便は液体なので下着とズボンから染み出してくる。ウンコは固体、下痢といえども小便よりはマシだ。ウンコは下着とズボンを通過しない。むしろ一番隠し通すのが簡単なのはウンコなのだ。落ち着いて、冷静に対処すれば困ることなどない。

ウンコ漏らせど鉄面皮、このタイトルを最初は、ウンコ漏らせど鉄仮面、にしようと考えていた。しかし鉄仮面というと表情の変化が乏しいことになる。俺は脱糞したときでも、笑い、おどけ、時と場合により真面目な顔をつくり、そんなあたりまえを過ごす。こうなると面の皮が厚いという意味の、鉄面皮、とした方が正しいのでそちらを採用した。
もしここまで読んでくれているのなら、特に学生諸君はこの記事を覚えていってほしい。ある状況下においては、期末テストより大事である。

こころ凪

ウンコ漏らせど

鉄面皮

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