条件反射で話の腰を折るやつは磔刑にすべし

話の腰を折るやつは最低である。もう磔刑でいいし、磔刑でもかなり譲歩してやってる方だ。俺の昔の職場の同期に、常に自分が話の中心でいないと気がすまない女がいて、自分の知らない話題で盛り上がってるとサササーッとやってきて全く関係ない自分の話をするやつがいたが、そこはもうなにも言うまい。あれは半気違いだと思うことでなんとか許せた。その同期女などは特殊な例で、今回俺が訴えたいのは条件反射で話の腰を折るやつのことである。これはわりといるし、本人は知らず知らずにやってるからたちが悪い。

例を出すなら、芸人のギャグなんかが流行ると、条件反射のバカが出始める。小島よしおの「そんなの関係ねえ!」が流行ったときは嫌だった。なにも小島よしおが嫌いなわけじゃなく、むしろ初見では大爆笑したが、流行り始めてバカが増えたのは間違いない。というのは、会話の流れで「そんなの関係ないだろ」とか言うとバカはこう返す。「でもでもでもでも〜?」これは確実に条件反射である。そいつの中で、近いワードが出たらノるということになってしまっている。それによって話の本筋が一旦止まるのだ。俺はそうなってくると会話する気が失せる。
「ダメよ〜ダメダメ」などもそうである。「ダメ」などの言葉に条件反射で反応するバカがいる。俺は思うのだ、それ言わなきゃ駄目か? と。とにかく、これをやられると話の腰が折れるだけでなく、俺自身も地獄の二択を迫られる。この寒すぎるノリにノって共倒れする、またはノらずにいる。ノったら俺まで寒い人間になるが、ノらなかったらノらなかったで、そういったバカは俺をノリ悪い人間認定してくるわけである。平気で話の腰を折ってそんなくだらん思いつきをブチ込む人間は、これはもうほぼノリ悪い認定を下してくる。なぜならそんなことが平気でできる人間性なので、自分が寒い人間だとは夢にも思っていないのである。
ギャグの流行りばかり例に出してしまったが、別に流行りじゃなくてもそうだ。こっちの発したワードが連想ゲームのように、そのバカの頭の中で知ってるなにかを想起させると、会話の流れや直接の関連性など関係なく発言してくる。会話の流れで「ところがどっこい」などと使うと、カイジを読んでるバカは(こう言うとカイジを読んでるやつがバカみたいだが、そういうことではない。十七歩麻雀あたりまでは俺も一生懸命読んでたし。)「ざわざわ」とか「夢じゃありません!」とか言うのだ。そいつの頭の中でそれが想起されるのは仕方ない。頭の中で結びつくのは罪じゃない、俺だってそんなことはよくある。アホみたいな顔で条件反射をおこして発言することが罪なのだ。流れとして関係なかったら我慢できないもんかね? とつくづく俺は思う。
そりゃ日常会話なんて連想ゲームみたいな部分もある。的確な投げかけと返しで成り立ってるわけではない。ただ会話というのは流れが大事であり、流れを止めるときというのは、その流れのままでいくよりも止めた方が面白くなるという勝算があるときだけにしてほしい。なんの勝算があってウンコみたいなノリをブチ込むのか俺は理解に苦しむ。また、言葉が少しかぶってたとか、状況が少しだけ似てたとか、そんなわずかばかりの共通点でなぜ意味わからんことを言えるのか理解に苦しむ。なんの脈絡もなく不純物をブチ込まれたら、本筋がフワフワしてくるし、ことによると本当に寒くなるので害である。
日常会話なんてものは話しているうちにどんどん話題がそれて移り変わるのが常で、それを否定しようってんじゃない。それも含めて流れってものだ。論点だのなんだの言い出したら、議論的な会話しかできなくなる。しかし、まるで言葉尻でも捕らえるようなブチ込みは磔刑にすべしである。健全な会話のそれ方というのは、例えるなら、コンビニに入っておにぎりを買おうとしていたのに、新発売のサンドイッチが殊の外美味そうだったのでそっちを買ってしまうようなものである。だが、勝手な脳内連想ゲームを浅ましくも口に出し話の腰を折るというのは、おにぎりを買おうとコンビニに入ったらプリウスが突っ込んでくるようなものだ。これはいただけない。
会話というのは相手がいて初めて成り立つもので、何度も言うようだが、互いに流れを意識するというのは非常に大切である。言いたいことだけ発言するというのは、鳴き声と一緒だ。自分の知ってるものが想起されたとて、そのわずかな共通点だけで言葉にするのは、がさつだ。どう育ったらそんな無遠慮で野蛮な人間性になるのかはなはだ疑問である。

とは言ったものの、俺は俺で考えすぎの気があるのは否定できない。対人となると特にである。会話をする場合、まず掴みのようなものを考えておいて、相手の返しというか、会話の運びを予想する。相手発端のときも最適な返しを考えて、運びを読もうとする。そして最終的な到達点、オチをどうするか、または相手がどう着地させたいか、ことによると自分がどうオトすか思索する。日常会話なのに明らかにやりすぎなのは否めない。これは対人関係の恐ろしさから、自分を面白い人間だと相手に認識させて地位を得ようと、幼少期から俺が培ったものであり、そしてもう習慣とか癖になっている。一応断っておくが、話が自分の予想通りに進まないと腹が立つわけではなく、変な角度から乱されるのに腹が立つわけだ。会話では予想外の返しなんていくらでもあって、それによってはさらに面白いものになることだって往々にしてある。しかし条件反射で話の腰を折るのは、泥舟だ。乗ったら沈むし、乗らないにせよお呼びじゃない。
思うに、俺が上に書いたようなことが平気でできる人間というのは、ほとんどなにも考えていない。返しはほとんど条件反射で会話しているのだ。そのときそのときに思いついたことを発しているだけなのだ。さらにそういう人間は、なぜだか自分の伝えたいことだけはほとんど押し売りのようにこっちに伝えてくる。やはりこれは鳴き声である。相手がそれを受けてどう感じ、どう考え、どう返すかは、はなっから頭になく、自分が伝えたいことだけを伝えて楽しめる人間なのだ。やつらは慮ることを知らない。多分そんなやつらは慮るという読みも意味も知らんので、もはやどうしようもない。そして大半が自覚がなく、もしこの文章を読んでも自分のことだと思わない。むしろマジでヤバイやつは「わかるわ〜」などと共感してそうだから救いようがない。………俺はここまで書いて、今その事実に気づいてしまった。心当たりがあったら気をつけてくださいね! 的な結びにしようとしていたが、当のそういった人間たちにはなんら効果がないことに気づいてしまった今では無理だ、できない。つまりここまで俺がシコシコ書いた文章は愚痴に終わるわけである。このままだと俺は、ここまで書いた文章が愚痴に終わることに対する愚痴などを書きはじめ、果てはその責任まで話の腰を折るバカにおっかぶせようとし、さらに文章の終わり時を見失うことになりかねないので、とりあえず次に改行して着地点を少し変えていくしかない。
俺は正直、ほんの少しそんな人間が羨ましく思う。若干の妬みと羨望があることも隠しはしない。俺もそんな人間だったらもっと人生楽しいだろうなと思う。でもやっぱり強く軽蔑する。磔刑にすべしである。磔刑。

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