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【サスペンス小説】その男はサイコパス 第12話

 水樹はそれでも少しためらっていた。3分か4分が過ぎた。水樹は、

「分かった。僕がやるよ」

とだけ言った。

「なら、さっそく謝罪文だ。形式的なのを書くからチェックだけしてくれ」

 実際には、謝罪文には手本となるような定型はあっても、かっちりと決まった形式はない。それは儀礼的なビジネスメールなどと似たようなものだ。

 知也は仕事柄、儀礼的な書面の謝罪文も見てきた。行政書士の仕事と同じ、特定の書式に従って書きさえすれば良いものだった。内心よりも形式。それが大事になる場面は多い。知也はそう思っている。

「水樹はそれを分かればいい。それさえ分かれば世の中は渡っていける」

 三橋大学に通ってきた頃にもそう言った。

「知也、弁護士としてではなく個人的な感情論になってしまうが、これで過剰防衛は理不尽だ。とはいえ日本の法律、これまでの判例なら起訴されるのを避けるにはこうするしかない。あの刑事さんはいい判断をしてくれたよ。出来うる範囲でね」

「ああ、そうだろうな。分かるよ」

 謝罪文を書きつつ、知也は返事をした。気軽な口調。マリスバーガーで何を食べたかを聞かれても同じように答えるだろう。

「そんな顔をするな水樹。こんな形式ばった手紙を書くくらいは何でもないさ。あの女が起訴されて見事有罪になった時、この謝罪文がどういう意味を持つか考えたら面白くなってきたよ」

 水樹は残念そうにため息をついた。

「残念だけど法的にはどうだろうか。知也が割れたワイン瓶で刺した時には、まだあの女も正式に容疑者になっていたわけではないからね。ナイフを持って不法侵入したが、お前を刺すとははっきりしていなかった、警察はすでに到着していたから逃げればよかっただけだ、と。ここで警察に言われた『事実』が、やはり事実として扱われるだろうな」

「ああ、分かっているよ。確かに法的にはそうだ。この事件が報道されたら、世の中がどう言うかと思ってね」

「法的な扱いと、人々、特にマスコミに煽られた人々の感情論は一致しないからね。おそらくは、君に同情的な声の方が大きくなるだろう」

「そうだろうな」

 それも俺が化け物だと分かるまでは、かも知れないが。知也は思う。

 生まれついての脳の特質だ。恐れだけでなく、人の弱さや悩みなどに対し温かい共感や同情を感じない。俺以外にも同じような人間はいる。これは本人のせいではない。

 そうした意味では、水樹が背負うハンディとさして変わらないとも言える。だからといってハンディを持った、配慮の必要な弱者として扱われはしない。サイコパシースペクトラムの持ち主が、大企業CEOやマスメディア、弁護士、公務員などの金も地位もある職業に多いのならばなおさらに。

 サイコパス、学術的に正確な名称は反社会性人格障害。その人格を形成する特質、すなわちサイコパシースペクトラムの中には、社会生活の中で優位に働くものもある。そんな特質だけを強く持った者がいる。名尾町知也もその一人だ。

 そんな選ばれた人間ではないとしても、サイコパスは必ずしも凶悪な犯罪者になるわけでも、倫理感のない人非人として振る舞うわけでもない。実際には特に犯罪者、つまり明確に反社会的な行動をする者は極めて少ない。それが事実である。

 だが、と知也は思う。仮に世間の誤解が解けたとしても、今度は強者側の人間として扱われ、より『配慮』や『保護』『理解』からは遠のくだろう、と。

 それを不当だとは思わなかった。少なくとも俺は、国家資格を持ち、並み程度の生活は維持できているのだから。正当防衛が認められにくいのは、日本全体の事情だ。この国にいる限り誰でもそうなのだ。



 三橋大学の近くにあるマリスバーガーに入る。仕事が終わった後の知也の日課だった。自宅のアパートから駅近くのハンバーガーショップまでは自転車で20分ほどだ。バスなら13分ほどになる。

 無事謝罪文を提出して警察署からは解放された。四ツ井法律事務所に戻り、報告と事務処理をしてからの帰路だ。

 今日は天気が良いので自宅から最寄り駅までは自転車で来ていた。バスの定期代はしっかり四ツ井法律事務所からもらっている。

 三橋大学は閑静な東京郊外の学生街にあった。大学通りと呼ばれる大通りの左右には、桜並木が道沿いにずっと伸びている。春には桜の名所として知られる場所だ。

 その大学通りに建つマリスバーガーの店に知也は来ていた。全国展開しているマリスバーガーは、どの店も似たようなカジュアルなカントリースタイルの内装だ。

 この三橋大学前店も例外ではない。明るい木目調のテーブルに、ライトグリーンの布張りの椅子が並ぶ。壁はクリーム色で、ところどころにハンバーガーやポテトやドリンクをおしゃれに描いたイラストが、簡素な木製の額で飾られている。

「ありがとう、おかげで助かったよ水樹。送検はされずに済んだ」

「別に僕のおかげじゃないよ。知也は一人でも謝罪文くらい書けただろう?」

「いやいや、お前のおかげだ。さすがの俺でも一人では心細いからな」

 知也は冗談めかして言った。例によって、言葉通りの意味にしか水樹が受け取れないのは分かっている。

「へえ、お前でもそんな気持ちになるのか」

 すでに時刻は8時だった。カウンターで注文してトレイと飲み物を受け取り、ハンバーガーはできてからテーブルまで持ってきてもらう。店の奥のテーブル席に二人はいた。

 店は大学通りに面した入り口から奥までやや細長い。大通りである大学通りから、細い道が出ているが、店の側面はその細い道に面していて大きな窓がある。解放感があり、日中は明るく陽光が入ってくる。

 今は窓の外も夜の闇に包まれていた。

「冗談だよ、俺は『化け物』だから、そんな気持ちにはならない」

 店員が二人分のハンバーガーを運んで来た。水樹のはフライフィッシュで、知也は照り焼きバーガーだ。

「ここの照り焼きが一番美味しい。マリスバーガーでも、特にこの店舗のが」

「他のマリスバーガーとの違いなんてあるのか?」

「ある、と思う」

「そうか。考えたことなかったよ」

「店の雰囲気のせいかも知れないな。味も違うように思える」

 水樹はそれには答えず、いきなりこう言ってきた。

「なあ、将来独立したいか?」

 行政書士として独立した事務所も東京には多い。雇われの身よりも成功すれば収入は多くなる。

「いいや」

 知也は短く返す。

 幸い明日は土曜日で出勤はない。平日の仕事帰りだけでなく、週末もいつもここでくつろぐ。今日まで、いつも一人だけで来ていた。社会人になってからは。

 椿はここに来なかった。椿とここで過ごしたことはなかった。今はどうしているだろう。それは単なる関心であって、感傷でも未練でもなかった。

「今日は俺のおごりだよ、弁護士さん。他になんか食いたい物あるか?」

「何を言っているんだ。助けてもらったのはこっちなのに」

「いやいや、俺たちの友情の復活の祝いだよ」

「別にいいよ、そんなのは」

 それ以上は知也は勧めなかった。

 

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1話あたり2,000から3,000文字です。現在連載中。

第一作目完結。83,300文字。 共感能力を欠く故に、常に沈着冷静、冷徹な判断を下せる特質を持つサイコパス。実は犯罪者になるのはごく一部…

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