ミステリーは真犯人を捕まえれば解決か?

結論から言うと、それですっきり解決になるラストのものもあれば、解決し切れない余韻を残して終わるものもある。

異論があるかも知れないが、コナン・ドイルのホームズシリーズはすっきり解決型であると思う。漫画なら『名探偵コナン』もそうだ。もちろん他にもあるだろう。

昭和の時代に流行った、社会派と呼ばれるものでは、「こうした殺人事件が起こるのは、社会の中にある差別や偏見のためなのである」としたテーマで書かれたものがある。(それだけではないかも知れないが)

私は松本清張の、それもドラマ版しか知らないが。

当然だが、社会全体の問題など一刑事の手に負えるわけがなく、この問題は未解決のまま、読者に問い掛ける形で終わる。

あとはエラリー・クイーンの古典的な推理小説は、私が読んだ範囲では、短編はすっきり解決するタイプだが、長編は違う。

かなり意表を突いた終わり方をして「本当にこれでいいのか?」と思わせたり、残された遺族はこれからどうするのだろう、といった感想を抱かせるものもあった。

あとはまあ、基本的に殺人事件である以上、人が死んでいるわけで、それぞれ事情を抱える犯人がやらかした事も元には戻らない。

それで、真犯人が分かって、トリックも解き明かされたからと言って、万事解決、ちゃんちゃん! で終わるのも情趣や人間味に欠ける、そんな感じ方もあるだろう。

アガサ・クリスティは比較的そんな余韻を残して終わるタイプである。ポワロはホームズほどドライではない。もっと人情味がある。

漫画なら『金田一少年の事件簿』も、そんなタイプだと思う。90年代、『名探偵コナン』と並んで少年漫画の推理モノの二大タイトルだったが、作風も読後感も正反対である。

『金田一少年の事件簿』はマガジン、『名探偵コナン』はサンデーである。

さて、一番何が言いたかったかというと、こうである。

推理小説に限らず何らかの形で問題解決を目指すフィクションの場合、とにかく全部すっきり解決して、爽快感を与えて終わらせなくてはならないとする考え方がある。

おそらくだが、大手のウェブ小説投稿サイトにおける主流はそうなのだろう。

他にも、まあとにかく余韻など残さずきれいに解決し切るのが男性的な態度であり作風であるとする考え方もある。

別にウェブ小説の主流はそれでいいし、好き嫌いは人それぞれなので、それも別に良いのだが。

問題解決志向のフィクションでも、全部解決してすっきり爽快! だけが全てではないのである。

すっきり爽快でも良いのだが。

まあとにかく、それが全てではないのである。

それでは、今回はここまで。

読んでくださってありがとうございました。また次回の記事もよろしくお願いします。

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