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底の底まで覗き込んでみよう

久しぶりに、ただ自分の感情を言語化してみるnoteを書こうと思う。まとまりはあえて度外視して、読み手を全く意識しないnote。けどこういう時に書く文章が、実は1番なんの殻もかぶってなくて、すごくすっと後の自分の心に滑り込んでくるのである。

自分が何を感じ考えているのか、人はすぐに鈍感になってしまうのかもしれない

最近、悲しいなぁと思うことがある。それは、色々なことを忘れてしまうこと・思い出せないこと。確かにそこにあったはずの思い出も経験も、色褪せ始めて、感じられなくなって来てしまうのだ。僕はこのことを、ひどく悲しいと感じている。

キッカケは、高校の友人の集まりで久しぶりに飲んだ時。あんなに当時、全力で過ごしていた高校生活、部活動の時間を共に過ごした仲間たちの、顔も、声も、少しずつ思い出しづらくなって来ている。これは純粋な記憶の老化もあるのかもしれないけど、何か、自分の中でその出来事の価値や意味合いが下がって来てしまっているからな気もしている。当時あれほど拘って、重要で、それが全てだった自分の中から、ありし日の記憶が知らぬうちに一つ一つ失われていくことが、ひどく恐ろしいことだと感じるようになった。
忘れたくて忘れているわけでない。ただ余りにも、日常の中に立ち現れない過去のために、ごくごく自然に失われていっている感覚があるのだ。

人は忘却する生き物であると、どこかで聞いたことがある

昔勉強した現代文の文章で、このようなことが書いてあった記憶がある。人は、すべての物事を覚えていたらおかしくなってしまう。だから、忘却していくことで、平衡感覚を保ちながら、狂わずに日常を送れるのだと。
たしかに、生きていく中であれもこれも無造作に思い出しているようでは、生きづらくて仕方ない。時には過去の辛かった記憶も、2度と取り戻せない輝く青春も、忘れることで前を向けることもあると思う。
だけど、だからと言って、忘れてしまうことの切なさ・空虚感が紛れるわけでも無いというのが本音のところだ。僕は今、忘れることを耐え難くつらく思っているのである。

「こんなこともあったよね」と、大人になった澄ました顔して笑っている自分に気づいているか?

最近、こういう言葉が咄嗟に出る自分が好きじゃ無い。
あの頃必死だったり、一生懸命に生きていた自己も・生も、まるっとひっくるめて丸め込んでしまうような言葉に感じている。大人になった今だから、あの頃の自分は幼く青く見えるよと、大人風を吹かせる自分が好きじゃない。あぁそうか。すごい書いていて気づいたけど、もっと僕は必死に一生懸命に生きたいと、今感じているのかなぁ。
大人になった感じがして、世の中のことも一定分かったような気分になって、「まぁこんなもんだよね」とたかを括ってしまう自分が、妙に好きじゃ無いと感じているような気もしてきた。なんかそれって、すごくカッコ悪い。

こんな簡単な気持ちにも、気付きづらくなるのが社会に揉まれ生きていくということなのだろうか

自分が真に何を感じているのかに、拘ってきた20代だったと思う。特にカタリバに出逢ってから、その傾向が顕著になり、その探究が最も知的好奇心をそそる旅路だった。
しかし、ここ数年はその欲求がめっきり失われていた。その理由は、「考え過ぎることへの反省」だったと思っている。内省をいくらしても、結局答えには辿り着けなかった。ずっと長い暗闇を歩いているようだった。そしてこの一年、自分なりに先へ進めていた気がしていたが、それはある意味、その問いを会社とそのビジョンに託していたからだったのかもしれない。
自分への問いかけを一旦保留し、会社のそれに願いを託して、ビジョン実現へ邁進する日々に充実感を感じていたのだった。それはそれでよかったのだが、やはり結局は「自分は何を大切に、どう生きたいか」という問いは一生ついてくるのだなぁと改めて実感もする。
仕事に夢中になっているときは、そんな問いを設けたり、日々の感情に敏感になるセンサーは弱くなっていたと感じている。

だからどうしたいのかはわからないけど、少なくとも自分の記憶と感じている気持ちは大切に生きていきたい

これは自戒を込めて、最近蔑ろにしていたものだと反省している。豊かな人生や生き方は、日々の内省習慣やジャーナリングの積み重ねの結果、手に入れたものだったようにも感じるのだ。一時期、自分の言葉や思考に触れるためだけにnoteを毎日頑張って書いていた時代が懐かしい。
そうやって、他のコンテンツに触れずに自分と対話する時間は、やっぱり豊かなものなのである。
消費に溺れず、インプットに甘えず、自分の中にあるものをしっかり出していくことを、改めて大切に生きていこうと思った、約1時間半の京浜東北線の中。

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