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AVを真面目に考察してみたくなった小噺ー予備的考察ー(深夜テンション)

(初めはTwitterで書こうとおもった、大して重要性のない言論なのだが、なんだがツイートを書いてる途中でTwitter(いまはもうXか)で語るには長すぎるくらいに冗長になってしまった。その為、久々のnoteの更新も兼ねて、こちらに書き残すこととする。
さて、テストも終わり、四回目となる長い長い休みが訪れた。
今年の春休みはできるだけ今下宿にある積読を消化したいと思っているのだが、どうせ積読消化するなら、積読消化の後に、僕が10代の間に考えていたことのまとめをしておきたいと思い立った。大学生前半の終了、そしてティーンの終わり時点で、私が考えていたことの集大成として、後学の為に———無論、後学といっても自分しか読む人間はいないのだけども———少しずつ文字起こしして、(就職市場に解き放たれる前に)noteに書き残してそれを記念碑(黒歴史の間違えか?)となしたいと考えているからだ。その嚆矢として、この記事を書こうと思ったところである。)



今日、元アイドルの前田美里さんが矢埜 愛茉(やのえま)さんとしてSODからデビューした。(トップの画像こそ彼女である。かわいい。以下本人twitterのURL)

https://twitter.com/yano_ema/status/1754479857659175338?s=46&t=fRnHhTRlPVlSuAp-FvcdjQ

この報を受け、私は早速パソコンを開き、彼女の作品の予告編を見るに至ったわけである。彼女の作品の予告編、元アイドルってこともあって特別扱いされてるのかわからないけれども、やたらとえっちらこっちらしているシーンのカットが少なかったのが少々不満足ではあったのだが…

それはされおき、この予告編をみて私はとある違和感を感じた。
あれ、昔(私が中高生だったころ)にくらべて、予告編でのAV女優の扱いかわったか?と。なんか、女優を昔よりも丁寧に扱っている感じが(デビュー作にあたるからそういう戦略があったのは当然なのだが、どうも以前より、小奇麗に感じられる)あるのだ。
わざわざ昔みてたAVの予告編なり本編を見る気力はなかったのだけども、
でも直感的に2010年代と2020年代のAVはどこか趣が異なるように感じるし、それこそ2000年代と最近のものの乖離は激しい。それは映像技術の発達や、流行りのメイクや髪型の違いも大きく関係しているのだろうが…しかし、その背後にある大きな潮流というか(たとえばそれは会社の作成するAVのみならず、同人作品、ハメ撮りなども含むと考えたら)、アダルトビデオ・ポルノを取り巻く環境の変化に合わせてこれらの態様は刻一刻と変化してきて、また今も変化し続けているのではないかと感じるのである。

、唐突になぜこういったことを書き始めようかとおもったといえば、昨今のTwitterはミソジニーを拗らせた紳士と、被害妄想の強い淑女の方々によるお気持ち表明ツイートを目にする機会がやたらと多いからというのがまずきっかけの一つにある。不同意性行に関するツイートとか、正直見飽きたし、最近はやたらと男女間の対立を煽り立てるかのようなツイートしか目にしていない。そして、よくTwitterのこういう界隈にいる女性が「これは男性による女性の搾取だ!」と叫び声を上げているシーンを見かける。まあこの言説自体も私の偏見に過ぎないのかもしれないが、今回の話においてはこの議論自体は傍論に過ぎないので、ここでは触れないでおく。
そしてもう一つは、またまたTwitterの話になってしまい、私の無教養をさらすようでとても恥ずかしいのだが、変態文学大学生こと、吉行ゆきの氏の活動がきっかけである。

氏は、官能的な文学作品に関して北大で院生をしながらTwitterなりブログなりで発信しているひと、らしい。少し前から知っていたけれどもそこまで詳しくは追えてないので、間違ったことを言っていたら申し訳ないです。
氏はエロ漫画の書評、邦訳されていない官能小説などについて性文化やLGBTQ関連で語るみたいなことをしてるようだ。

前置きが長くなった。この二つの素因からじゃあなぜ私がおもむろにAVの話題についてふれだしたのか。
それは搾取される女性という言論をこのAVについて私が前述したこと(即ちアダルトビデオ・ポルノを取り巻く環境の変化に合わせてこれらの態様は刻一刻と変化してきて、また今も変化し続けているのではないかと感じるという私の意見)を、こうやって官能なりエロ漫画をもとに本気で研究しているひともいるくらいだし、少しくらい真面目に考えてもいいだろうと思った故である。

まず未だに明らかにされていない(?)AV草創期から現代のAVにかけてそのAVはその背後にある社会の世相、背景を反映しているという直感的な仮説に基づき、(今は直感的だけど今後自分的に理論だてていきたいとは思う。)を単なる世相、背景の把握のみならず、「表象」の背後にあるものまで実態把握していく試みは文化的にも価値があるのではないかと思うし、私自身興味深いところである。
そしてもう一ついや、特に重要なのが画面の”こっち側”にいる我々と”向こう側”にいる演者の関係性についてである。そしてこれが先ほど述べた「搾取」言論と結びついてくるのである。当然AVでは女性に限定することなく男性もまたその対象となりえるのであるが…
こうした疑問点は、私の(またしても)直感的な違和感から生ずるところがある。
私は、買春行為については自身の信条として反対している。(とはいえ、他者にまでそれを強要しようとは思わないけれども)その理由は、他者の身体に対する強い侵襲にあたるこの行為を金銭の授受(当然そこには「申し込み」と「承諾」の売買契約の関係がある以上、女性側にも選択をする権利というものは留保されているはずであるため、女性が承諾した場合は認めてもよいのかもしれないけれども、その売買契約を認めてしまうことは、私は債務奴隷制度に近いものとして、受けいれることができないきらいがある。ここで強調したいのは単に国家の下では公序良俗に反する契約である即ち、国家の要請する規範を守るといった理由で退けているわけではないということである。)によって強制的に成り立たせる行為は、私にとって、
「今、目の前に実存する生身の人間を、無機質でまた魔力的である「貨幣」と引き換えに「交換」することを通じ、彼又は彼女らの他者性を捨象し、物象化をなし、結果人間としての実存を脅かすことになってしまうのではないか」という恐れを生じさせてしまう故である。
一方で、AVに対して私はこの感覚を感じていない。当然、彼ら彼女らとの間で目に見える形で金銭の授受が発生している訳ではないので、(間接的にはAVのメーカーを通じて支払っているのだが)その罪悪感を感じにくくさせているともいえるのだが。問題はそこではない。
つい先ほど、金銭を代価となして、性を交換することに対する疑問・嫌悪感の感情を述べたにもかかわらず、金銭の授受を伴うことなしに、性を一方的にいわば「搾取」することになる結果にたいして(当然レイプなどはここでは含まない。直接的な身体の自由の侵害は逮捕以外いかなる理由があっても許されるものではないと、私は思うからである。一方金銭の授受を伴っている場合は身体の自由の侵害が行われたとしても、合意契約としてと考えるのが私の先程述べた考えではあるし、強姦罪に合意の有無という要件を追加した不”同意”性交罪となしたのもその所以ではなかろうか)、私が違和感を感じてしまっていないのはなぜなのか。

その私の違和感の感じなさを適切に言語化し、またメタな視点まで踏み込んで話せるようになりたいというのが、この記事を書こうとおもった理由の一つなる。「買春はダメなのに何でAVはOKなんだと友人に聞かれたときに返す返答が未だ見つかっていないからである。」

画面越しの”こちら側”と”あちら側”という断絶。しかし、演者同士の行為をみてそれを性的な欲望を向かわせることは果たして搾取にあたるのか。などなど、疑問点は沢山ある。
この議論に関してはおいおい触れていきたいところである。

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