ニューヨーク生活17年目になりました。ここでたいてい、取材しています

はじめまして。私はニューヨーク在住17年になる、ライターの安部かすみです。Yahoo!ニュースなどで、米系トピックスの記事を日々発信しています。

ニューヨークでたいてい、取材をしています。

昨年、私が住むブルックリンの本『NYのクリエイティブ地区ブルックリンへ』(イカロス出版)を出版しました。

記事配信と関連の多い、テレビ取材コーディネート、撮影、通訳、翻訳、視察のサポートなども、ご依頼があれば行っています。

ニューヨークへは1990年に初めてやって来ました。80年代からの「危険な香り」が残っていた時代で、イーストビレッジには麻薬中毒者が、五番街にはスリが横行していました。でもホームステイでお世話をしてくれたファミリーがとても親切で快適に過ごせ、私はアメリカ人そしてニューヨークが大好きになりました。

1ヵ月の滞在の最終日、私たちはファミリーの車でマンハッタンからブルックリンへ向かっていました。振り返るとちょうど夕暮れが綺麗な時間で、摩天楼がとても綺麗でした。私が何気なく鼻をすすったら、4人の子どものうちの1人、7歳のボビーが「Are you crying?」と聞いてきます。私がニューヨークが大好きになりここを去りたくないことが、どうやら子どもたちにもバレていたようです。

数年後に移住しようと決めたのですが、帰国後に日本の出版社で働くことになり、電話番を経て編集者として採用されました。ミュージシャン(90年代後半の著名人)にインタビューし、クリエイティブな現場のお話を直接お聞きする、感性がとても磨かれるお仕事で、刺激的な毎日を送っていました。

しかし30歳という節目の年齢に近づくにつれてこれからの人生を考えたとき、アメリカに行く夢を果たさないままでいいのか?と自問しました。編集長として1冊のムックを2つ作った時点である程度の達成感もあったため、このタイミングで会社を辞めて行くしかないと決意。退職の10日後に911同時多発テロが起こりました。

私の大好きなニューヨークが大変なことになってしまい渡米を一瞬迷いましたが、「こんな今だからチャンスがあるのでは」と後押ししてくれたのは大切な仲間です。

働いて貯金した2年分の学費&生活費を握りしめ、2002年語学留学生として再上陸。

英語はできず(特にヒアリング力ゼロ)。JFK空港に降り立ちマンハッタンの学生寮に着いたとき、周りの人が何を言っているのかほとんどわかりませんでした。しかし何を血迷ったのか、その翌年コミュニティカレッジへ進学しようと学生課に話を聞きに行ったら、ぽかんとした私に「今説明していることがわからないんだったら、大学に入っても無駄よ」と言われ、自分の英語力のなさに愕然としながらも的を射た意見に素直に納得し、アメリカでの進学は断念しました。

それからしばらくして、在ニューヨークの日本語新聞社から声がかかり、再就職。今でもはっきり覚えていますが、当初取材に行って取材対象者の言っていることがわからず呆れられたりもしたし、逆にそれでも取材に来た勇気を褒められたり、電話でのアポ入れに苦戦したり、悔しい思いもたくさん。でもそのおかげで(日米での経験も含め)、どんな職種でもどんな性格の方でも、臆することなくインタビューができるようになったと思います。

17年間のニューヨーク生活は山あり谷あり。トラブルの一つが、ビザ問題による失職でした。

ビザの関係で2014年、7年働いた日本語新聞社を退職しなければいけなくなり、意図しないままに「独立」することになったのです。

しかし今思えば、独立したからこそ、自分の著書を出版できたり、さまざまなメディアで記事を書くチャンスをいただけるようになったので、人生のストーリーというのは、そのときどきは思い通りにいかなくても、結果的にうまく転がっていくものだなぁと思っているところです。

周りの人々に助けてもらいながら、2年のつもりがこんなに長くここにいて自分でもびっくりしています。こんな私でも今ではあのアナ・ウィンターさんとの会合の通訳という大役をいただくほどに成長させてもらい、これまで私にチャンスを与えてくださった方々には、感謝の気持ちでいっぱいです。

人生いろんなことが起こりますが、そのときそのときを誠実に一生懸命に取り組んでいけば、扉は開かれていくものですね。

note利用者はクリエーターが多いそうですね。ここにいる皆さんと共に成長できたらうれしいです!


最後に。ニューヨークまたはアメリカを含む北米(もしくは英語圏)での取材、リサーチ、スチール撮影、テレビ撮影コーディネート、通訳、翻訳、視察のサポートが必要なときはお声がけください〜。

ポートフォリオ a.kasumi


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