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チェンソーマン中毒って話と、仕事について考えたこと

一体何事だという感じのタイトルですが、そのままです。

チェンソーマンはすっごく話題になっていたにも関わらず、最近読みました(漫画)、そのときに度肝を抜かれました。作者(藤本タツキさん)の狂気というか、いやこれを才能と呼ぶのか。なんとなくはじめて「ムンクの叫び」を見たときのような衝撃がありました。鬼気迫っている。とくに突然始まる乱闘シーンの見開きや、容赦なく展開していく物語に、涙どころではなく、どちらかというと振り落とされないことの方に必死になる。中毒性があります。いちばん好きなキャラクターはポチタです。せつなすぎるしかわいいが過ぎる。頭から出ているチェンソーって一体なんだろう?と思うけれど、彼の切なさは、おそらく序盤で退場しているからこそ出るものですよね。こんなにも愛おしいキャラクターがいるなんて!と思いました。

それで、アニメを見たんですが、こっちにも唖然としました。MAPPA(株)という、この人達はいったいどういう熱量でこの仕事をしているのだろうと思いました。とくに驚いたのはエンディングです。どれも好きですけれど、とにかくすごい!!と思いました。私にとって、かつてアニメのエンディングは、非日常の夢の世界から戻る一つの時間であって、終わってしまった20分への寂寥と、現実に向かうシビアな感じが入り混じったものでした。けれど、すべてのEDが違うことで、しばらく呆然とするという新しい体験をしました。

そしてふと思うのは、藤本さんも、MAPPAの人たちも、EDを依頼されて曲をつくったアーティストの方々も、きっとお金のために働いてはいるけれど、お金のためだけには働いていないのではないか、ということです。やりがいと言ったりするけれど、それよりももう少し後ろめたいような、執念のようなもの、ごく私的な欲望のような、衝動のようなものが原動力ではないかと。たしかにお金は大切ですが、お金だけでは、こんな作品は登場しないのではないかと思いました。そして、私はそういう「情熱」みたいなものを持っているだろうかと、自問自答しました。

かつては、自分にしかできないことをしてみたいと思っていた。けれど現実的には、私以外の人がその仕事をしたって、別になんの問題もない、そういうのが仕事であるとも思います。でも、だからといって、行動のすべてが「全部お金のため」に揃える必要なんてないし、自分の楽しみのためになにかをやっていいし、夢中に没頭する時間の価値は変わらない。

14歳位のときにハマったものは、感性の完成に影響を与えているため、いつまでも繊細な気持ちになりやすいと聞きました。ちょっと自分がよくわからないときにはそれを思い出して、好きな食べ物とか、好きな習慣とかをたぐりよせようと思います。

来年の目標は「情熱」にしたいです。

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