仕事とお金の無関係について

お金について書きたいと思う。しかし、儲け話ではない。そんな話は一つも知らない。先日、仕事とお金にまつわるnoteをいくつか読んだので、それを読んで考えたことである。

屋根裏さんのnote

「仕事はお金のためにやるものではない」という言い方を、割とよく聞くけれど、これは半分は当たりで、半分は間違っている。仕事をすることそれ自体の目的はお金ではない。もしもそうだとしたら、お金がもらえないことは仕事ではなくなってしまう。お金をもらえない家事や育児は仕事じゃないのか? そんなわけないだろう。世の中にこれほど立派な仕事はない。

仕事とはお金のために為されるものではなく、他者の役に立つために為されるものである。しかし、一方で、その仕事の報酬として、多くの場合、お金が発生する。では、どうしてお金が発生するのかと言えば、人はお金が無いと食べていけないからである。なにゆえ、お金が無いと食べていけない社会なのかということはこのnoteでは深入りしないが、現代の少なくとも資本主義社会では誰しもこれは認めざるを得ないだろう。お金が無いと人は死ぬ。ということは、人を死なせないようにしようとすれば、お金を世の中に巡らせるシステムが必要となるわけだ。ただバラまいてもいいのかもしれないけれど、それじゃ芸が無いので、仕事をしてもらう代わりとしてお金をあげようということにした。仕事をすればお金をもらえる。この意味では、仕事はお金のために為されるのだと言ってもいいことになる。

仕事の報酬としてお金が発生するのは、お金が無いと食べていけないという、人間の生物学上(社会学上?)の条件によるに過ぎないわけで、その報酬の額は、契約社会では契約によることになる。報酬額は契約当事者の合意によるのであり、仕事それ自体の価値とは本質的な関係は無い。

だからこそ、人に仕事を頼むとき、あるいは、仕事を引き受けるときは、そのお金の額を最初に明らかにしておくべきだろう。報酬額は仕事それ自体の価値と本質的な関係はないのだから、少額を提示しているからといってその仕事を軽んじていることにはならないし、多額を要求したからといって尊大に構えていることにはならない。お金のことを話さない人は、このあたりのことが全く分かっていないのだろう。そういう人と仕事はできない。以下は、上のnoteからの抜粋。

言ってしまえば、提示金額はいくらだって良いのだ。
それぞれの事情、懐具合がある。
ちゃんとそのことを話してくれれば、コーヒー一杯で引き受けよう!という気持ちにだってなれるかもしれない。
要は信頼の問題なのだ。
依頼主であるあなたが私を尊重し、約束を交わそうという態度を見せてください。
私の要求はそれだけである。

全く同意である。

鈴木詩織さんのnote

お金自体は卑しいものではないが、何でもお金のためにやっているという考え方は卑しい。考えにとっての卑しさとは何か。それは考え尽くされていないというそのことである。「お金のために本を売ってる」という考え方は、本を売るという行為について考え尽くされているとは言えない。以下は、上のnoteからの抜粋。

作家の仕事を維持・発展させたくて私は自分の作品を販売しています。
作家の活動を通して、自分自身の豊かさだけでなく社会全体を豊かにするという目標もあります。

本を売るという行為には、単にお金のためだけではなく、以上のような目的もある。よって、「お金のために本を売ってる」と考える人は卑しい。

所詮はお金のためでしょと言う人は、所詮はお金でしか物事を見ることができない人である。こういう人は、本を売ることだけではない、人と付き合うことや、家族を持つことや、自身の趣味さえ、損得勘定で考えることだろう。それしか視点が無いからである。

まとめ

仕事とお金には本質的な関係は無い。仕事は仕事、お金はお金とわけて考えておくことをお勧めする。仕事は、お金のためにするのではなく、仕事それ自体のためにする。では、生活のためのお金はどうするのかと問われると、そんなことはわたしの方が教えてもらいたいくらいのものだが、少なくとも、お金を稼ぐために仕事をするという考え方は、やはり取らない方がいいだろう。本来関係の無い両者を関係させるところから、仕事にまつわる様々な悲喜劇が生まれることになる。これに関しては別に書いてみたいが、予定は未定である。

この記事が参加している募集

#note感想文

10,645件

読んでくださってありがとう。もしもこの記事に何かしら感じることがあったら、それをご自分でさらに突きつめてみてください。きっと新しい世界が開けるはずです。いただいたサポートはありがたく頂戴します。