自分の頭で考えるヒント4 ~分かった振りをしない~

昔、孔子という偉い人が、分からんちんの弟子にこんなことを言った。

「『分かる』ということがどういうことかを教えてやろう。分かることは分かることだと認め、分からないことは分からないことだと認める。これが、『分かる』ということだ」

なにやら、分かるような分からないようなお説教である。これを聞いた弟子は師の意図するところが分かったのだろうか?

人は分かるということが大好きである。特に難しいことを分かることが好きだ。だから、哲学者や思想家が考えたことを分かりやすく説明してくれる本が売れているわけである。

自分の頭で考えるということについて言うと、この「分かる」ということに関しては、なかなか厄介なところがある。というのも、ある問題について分かることを目的にするという点では、自分の頭で考えていようが、いまいが、同じことだからだ。違うのは、自分の頭で考えるということは、分かることを目的にしつつも、それを最終的なゴールとはしないところにある。ある答えが出たとしても、それをさらに疑って、本当にそうかどうか吟味していくことに、自分の頭で考える楽しさがある。

なので、分かることより、分からないことの方が、自分の頭で考えることに関しては重要なのだ。分からないからこそ、それを不思議だと思って、追求できるからである。先のnoteにおいて、本からは、答えではなく問いを受け取らなければならないと書いたのが、このことである。

分かることを重視しすぎると、分かった振りをしてしまう。これが、他人に対する見栄のために為されるならまだいい。カッコつけたいだけならよし。自分が本当は分かっていないことが分かっているからだ。問題は、自分でも分かっていないと分かっていないまま、分かっていると信じ込んでしまうことである。分かることが大好きすぎて、本当は分かっていないにも関わらず、分かったように強引に解釈してしまうのである。

たとえば、「全ての悩みは対人関係の悩みである」というテーマがあったときに、これについて、本当はよく分かっていないのだけど、飲みの席なんかで同伴者にカッコつけるために言うだけならいいのである。よろしくないのは、本当はよく分かっていないにも関わらず、「なるほど、確かにそうだな。プリンがうまく作れないという一見、個人的に見える悩みも、できあがったプリンの出来について他人の目を気にするから生まれるんだ! 一人でプリンを作っているときにも、実は他人がいるんだ!」などと、分かったように解釈してしまうことである。

こうなるともう、そこで思考停止、自分の頭で考えることからほど遠い話になる。分からないことは分からないと認めましょう。「全ての悩みは対人関係の悩みだ」と言われて、もしも分からなかったら、「本当にそうかなあ」と疑って追求する。その結果、本当にそうだと確信が持てたら、そう考えればいいし、確信が持てなかったら、本当はどうなのかと考えることができる。どちらにしても、その考える過程を楽しむことができる。

分かることは分かる、分からないことは分からない。しかし、あることが分かると言うためにも、分からないと言うためにも、考えてみる必要がある。よくよく考えたのちでなければ、本当は「分かる」も「分からない」も無い。「分かる」とか「分からない」とか言う前に、よくよくと考えてみよう。それが、孔子が言いたかったことだとわたしは思う。これ、分かりますか?

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