自分の頭で考えるヒント

自分の頭で考えた方が面白いと、何度か書いたことがある。しかし、どうもこれを伝えるのは至難のわざであるということに気がついた。わたしの文章の下手さゆえということもあるけれど、そもそもが、みな考えている限りは、現に自分の頭で考えていると思い込んでいるからである。そうして、それは、ある意味で正しい。誰も他人の頭で考えることなどできないからだ。

ただし、わたしが、「自分の頭で考える」ということでもって言いたいこは、単にある問題について思考するということではなく、「自分が不思議だと思うことを見つけ、それを一人きりで追求していくということ」である。この営みは本当に面白い。しかし、どうもこれをしている人が少ないような気がしてならない。もったいない。この営みに誘いたいという気持ちでもって、自分の頭で考えることの面白さを伝えることが難しいことを重々承知の上で、あえてそれについて書いてみることにした。何ごともトライ、トライ。

自分の頭で考えることは、何が面白いか? しかし、それは実際にやってみないと分からない。実際に水に入ってみなければ、水泳の面白さは分からないのとおんなじ。入ればすぐに分かる。ちなみに、わたしは泳げない。とはいえ、「実際にやってみろ」では、ミもフタもないので、「自分の頭で考える」とは何をすることか、そのためにはどうすればいいか、ということを以下、書いてみたい。

今しがた、わたしは、自分の頭で考えるということは、「自分が不思議だと思うことを見つけ、それを一人きりで追求していくことだ」と書いた。まあ、これが、自分の頭で考えることの中身と方法の全てである。

まず、自分が不思議だと思うことを見つけること。不思議で不思議で、心の底から知りたいと思うことを見つけること。世の中的には重要な問題だったとしても、自分の興味を引かないものはダメである。

そうして、それを見つけたら、他人に頼らずに、一人きりで追求していくこと。他人に聞いたり、本を参照したりすると、面白さが半減してしまう。一人きりでというところがポイントである。

煎じ詰めれば、この二点だけなのだけれど、これがなかなか難しい。

何が難しいか。

まず、不思議だと思うことを見つけることについてだが、何かを不思議だと思うためには、それを不思議だと思う感受性が必要である。感受性が無いと、不思議だとは思えない。大人になると感受性を失ってしまいがちである。昔は、気になるあの子と目が合うだけでドキドキしていたのに、今では階段を昇ったときくらいしか動悸がしなくなっている。そんなみなさんにも純真だった頃があるハズ。子どもの頃を思い出していただきたい。子どもの頃は色んなことが不思議だったはずである。あることがなんであるかということが、不思議でたまらなくて、周囲の大人にしつこく尋ねては困らせていたことだろう。そのときの感覚をちょっと蘇らせていただきたい。

それを一人きりで追求していくことに関して言えば、これが難しいのは、あることについて考え始めると、人はしばしば、その問題について是が非でも答えを得ようとしてしまうからである。結果が求められる社会の荒波にもまれすぎていると、とにかく答えだけ得られればいいという頭になって、答えを知っていそうな人(や本)にそれを聞こうとしてしまう。それで、他人に尋ねることになる。結果、一人きりで考えることができなくなるという寸法である。自分の頭で考えるという営みに関しては、答えを得ることは大切なことではないし、そもそも、得た答えが正解であるということは誰も保証してはくれない。

あとは実際にやってみてください。

自分の頭で考えることで得られるものは何か。これは、申し訳ないけれど、大したものはお約束できない。ただむやみと面白いというその無類の面白さを除けば、この世界の真実くらいのものである。

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