幸福になる条件 ~幸・不幸空間の中にいること~

今朝、起きて、いつものようにパソコンを起動してみると、青い画面になって、「BitLocker回復キー」という謎のキーの入力を求められた。何のこっちゃと調べてみると、これ、Windows11の更新プログラムの不具合らしく、そのなんちゃらキーが不明だとデータ消失して詰むということらしかった。画面と同じくらい真っ青な顔になったわたしはネット記事を参照しつつ、キーの所在を探し出して何とか事なきを得た。

そのときに、「ああ、パソコンが普通に使えるというのは何と素晴らしいことだろうか……」と平凡な日常に感謝した。さして面白くもない仕事、細かい上司、人の記事に難癖付けてくるヒマ人、お腹周りの脂肪、公共料金の請求書、そういう平凡な日常を構成するストレッサーにも感謝して、幸せな気持ちになった。なんだ、こうして普通に暮らしているだけで幸せじゃないか。他に何も必要なものなどない。旅行に行けなくても、フォルクスワーゲンが無くても、いつも買っていた天然水が在庫不足で買えなくなっても、そんなことは大したことではない。今あるものに感謝さえできれば、幸せなのだ。幸福とは外に求めるものではなく、ただ意識するものだったのだ……。

自足する幸福である。
足るを知る。
今のままで十分ではないか。
今朝のわたしのようにそれを感じられる人は、今すぐに幸福になることができる。

では、「今のままなんて嫌だ! あれも欲しいこれも欲しい!」と思ってしまう人はどうか。
不幸な人か。
あるいは、そうかもしれない。
しかし、自分のことを不幸だと思える人というのは、幸福になれる可能性を秘めている。

どういうことか。

たとえば、昨日までのわたしのように、「ああ毎日面倒くさいことが多いなあ、不幸だなあ」と思っている人がいたとして、その人も今日のわたしのように、当たり前の日常の素晴らしさ的なものに気が付くことができれば、幸福になれる。自分のことを不幸だと思っている人というのは、もちろん、そのまま一生不幸だと思い続けるかもしれないけれど、何かをきっかけにして幸福になる可能性を秘めている。その意味では、すでに半ば幸福な人であると言ってよい。

そんなバカな!
不幸だと感じているのに、半ば幸福だなんて言われても信じられない。
そう思う人もいるかもしれないけれど、本当なんですよ。
不幸だと感じられる人は、幸福になる可能性を秘めているということで、半ば幸福な人なんです。

対して、自分のことを不幸だとも思えない人というのが世の中には存在する。たとえば、病に苦しんでいる人がそれだろう。ちょっと想像してみてほしい。腹痛に苦しんでいるとき、「ああ、なんて自分は不幸なんだ」などと考えるだろうか。そんな余裕無いだろう。「痛い、この痛みを何とかしてくれ」と思うことだろう。人は病に苦しんでいるとき幸不幸のことなど考えない。よって、病人は幸福にはなれない。もちろん、ちょっとした病であれば別である。何となく調子悪いくらいだったら、「こんな体調だからわたしは不幸なんだ」と考えられる余地がある。しかし、重病に苦しんでいる人には、そんな余地は無い。

幸福になれるのは、「幸―不幸」という空間の中にいる人だけである。
この空間外にいる真に不幸な人は、幸福になることはない。
自分のことを不幸であると考えることができる人は、すでにしてこの「幸―不幸」空間の中におり、何かの拍子に幸福になることができるのである。

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