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自分の書いたことに睨まれる

自分の文章を読み返していると、「なかなか威勢のいいことを書いているな」と思うことがしばしばあります。自分でさえそう思うのだから、読んでくださっている方はましてそう思っておられるかもしれないと思えば、とはいえ、しかし、可も無く不可も無い、毒にも薬にもならないようなことを、いくら書き連ねてもしようがないとわたしは思っていて、以前にも書いたことですが、わたしが書いている物には一読の価値がありますので安心して読んでください、とこう思えることしか、わたしは書きたくない。そうすると、どうしても威勢がよくなるという次第です。

他人にとっては価値、では、自分にとってはどうなのか。自分にとって文章を書く意味というのは、色々ありますが、その中で、行為の規範を形作るというものがあります。自分がどういう行動をすべきなのか、書くことによって、そのルールを作る。どういうことかと言うと、エラそうな調子で物を書くのであれば、当然に、書いた通りに生きなければウソだろう、というそのことです

以前、言行の不一致について書いたことがありますが、あれは言っていることとやっていることが別になるのは、言語の性質上当たり前だということを言っているだけであって、だから、わたしが言っていることとやっていることが別でも責めないでくださいね、なんていう言い訳のためのものでは全然ない。

書いた通りに生きる。たとえば、わたしは再三、幸福追求を重視することは病気であると書いている。だから、宝くじで1億円当たっても、豪遊するわけにはいかない。さんざん生死について考えよと書いているのだから、明日死病が見つかっても右往左往できない。批判をするなと書いているのだから、芸能人の浮気を責めるのは筋違いということになる。

自分で書いたことに睨まれている。自分の文章が、「お前の行動をいつも見ているぞ」と脅してくるわけです。こうなると、書けば書くだけ、損をしているような気にもなるのですが、そもそも、なんにせよ、損得気にして物を書くなら、書かない方がマシであるとも思っていますので、やむをえないところです。……そうして、そのようなことを以前書いたことを思い出しました(→「欲得ずくで物が書けるか!」)。

#エッセイ

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