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「言行の不一致」に関する考察

言っていることと、していることが一致しない人について、どう思うだろうか。多くの人が、そういう人は信用できない、と思うのではないか。しかも、遠目に眺めている分にはまだいいけれど、それが自分に関係する人だとしたら、嫌な気分になることだろう。たとえば、パートナーが「あなたのことを愛しています。一生裏切りません」と言ったにも関わらず、浮気をした場合など。

ここで少し考えてみたいのは、どうして人は言うこととそれを行うことを別にすることができるのかということである。そんなことは当たり前じゃないかと思われるかもしれないが、だとしたら、その現に実行されなかった、行動に移されなかった言葉というのは何なのだろうか。それはただの言葉ですよ、という答えが返ってくるかもしれない。そう、その通り、ただの言葉である。人が言うことは、ただの言葉なのだ。それについて、必ずしも実行を伴わなくても、存在できるものなのです。

ところで、あなたは、当たり前のことに怒る人のことをどう思うだろうか。まあ、なにを当たり前と呼ぶかにもよるのだけれど、たとえば、電車の中で赤ちゃんが泣いているとする。赤ちゃんが泣くのは当たり前だろう。さしあたって、他にやるべきこともないだろうし。これに対して、どうして泣くんだ、と怒る人のことをあなたはどう思いますか。「怒って当然だ、ウルサイ」と思うのであれば、これ以上語る言葉が無いのだけれど、まあ、そんなもん怒ってもしょうがないでしょう。もちろん、全然、親が対処しない場合は、怒るかもしれないが、それは親への怒りであって、赤ん坊への怒りではない。

当然のことに対して怒っても仕方が無い。だとしたら、行動を伴わない言葉が存在することも当たり前なのだから、言行の不一致に怒ってもしょうがないということになるのではないだろうか。言行の不一致なんてものは言葉の性質から当然に起こりうるものなのである。とすれば、いったい人は何に怒っていることになるのか。たとえば、浮気をされたとき、何に怒っているのだろう。実はそれは裏切った相手ではない。裏切るような相手を、うかつに信じてしまった自分自身に対して怒りを持っているのである。

わたしも、多くの人と同様に、言行が一致しない人と付き合いたいとは思わないが、だからといって、言行を一致させるべきだ、一致していないやつはけしからん、と怒ったりはしない。そういうことは当たり前だからである。言行の不一致が当たり前にあることだとしっかりと思いみなせば、言行が一致している人の方が当たり前ではなくなって、その人の価値が上がる。そうして、言行一致の価値が、外見なんぞの価値よりももっと上になればいいと思っているのだけれど、どうだろうか。

#エッセイ #哲学

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