欲得ずくで物が書けるか!

読み手にウケるかどうか考えて書く、ということができない。というか、そもそもそれがどういう行為なのか分からない。書くということは、真実を書くということでなければウソだろう。ここで言う真実とは、わたしにとっての真実である。「ちょっと待て、真実とは公共性を持つものだからこそ真実と言うのであって、ただお前にとっての真実など、真実の名に値しない」と言われると、まことにお説ごもっともなのだけれど、現に考えているのはわたしでしかないのだから、そう言うほかないのである。そうして、その「真実」は、必ず読み手のためにもなるはずだ。ここには損得勘定は無い。

一昨日に書いたノート「スキとコメントに対するお詫びと御礼」を読み返したところ、「わたしはコメントしませんけど、コメントもらえると嬉しいです」という風にも読めることに気が付いた。幸いにも、そのようなご批判はなかった。ということは、そのような読まれ方はしなかったということだと思いたいけれど、念のため書いておくと、もちろん、そんなつもりではありません。単なるお詫びと御礼という、それだけの話です。もしも、そんな風に読む人がいたとしたら、これは、はっきりと言いますが、その人が欲得ずくで物事を考えているからです。

欲得ずくでものを考えれば、何だって損得気にしてやっているように見えてしまう。せんだっての、RADWIMPSの謝罪の件(人気ロックバンドが、新曲が軍歌のようだと批判されて謝罪した話)をまた持ち出すけれど、単に謝罪したかっただけかもしれないのに、謝罪したのはレコードの売り上げを気にしたからだ、という話になってしまう。他人を見るその見方の中に、自分という人間は現われてしまう。一即多多即一とはそういうことだろう。

もちろん、わたしも、生活するためにいくばくかのお金が必要であり、それで自分の文章に値段をつけているというところはあるが、それは単に霞を食べては生きてはいけないという、ただそれだけの話である。書くために食べるわけであって、食べるために書いているわけではない。

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