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サーモンマリネの味

小学校でもらってきたというミニトマトの苗は、小さな植木鉢に移され、GW前頃から玄関脇の日当たりの良い場所に置かれた。雨が当たらない場所でもあり、梅雨どきの植木鉢には、頻繁にダンゴムシが出入りした。
やがて何本かの苗は萎れてしまったが、最後に残った一本は貧弱ながらもいくつかの実をつけ、7月過ぎには最初の一個が赤くなった。出入りしていた何匹かのダンゴムシは、その小さな植木鉢にすっかり定着していた。

その日は、記録的猛暑の晴天であった。
1学期終業式を終え、帽子の下に大汗かいて帰宅した巨漢姉妹は、玄関脇の小さな植木鉢の、いくつかの完熟ミニトマトに気がついた。
「すごーい」「食べられるかな」一瞥すると姉妹は、汗を滴らせながら急いで家に入った。「アイス、アイス!」「氷、氷!」
ランドセルを放り投げた巨漢姉妹は、氷菓子を頬張りながらミニトマトの件を母親に報告した。
「ふうん、夕食に使おうか。あとで入れといて!」巨漢姉妹の母親は、クーラーの下で洗濯物をたたみながら返答した。
いくつかの氷菓子を丸のみしたのち、巨漢姉妹の妹は、小さな植木鉢を片手で掴み上げ、颯爽と家の中に戻った。そのとき、植木鉢の底に張り付いていた何匹かのダンゴムシは、植木鉢もろともダイニングキッチンまで運ばれてしまった。

小さな植木鉢は、キッチンからダイニングを臨むハイカウンターに、新聞紙を敷いて置かれた。やがて母親は買い物に出掛け、巨漢姉妹はテレビを見て午後を過ごした。クーラーの設定は、姉によって22度まで下げられ、小さな植木鉢に潜んでいた数匹のダンゴムシは、最悪の環境に愕然として丸くなる他なかった。「寒い!」
夕方、帰宅した母親が夕食の準備を始めた。沸騰するやかん、蒸気を立てる炊飯器、保温される鍋や炊事の熱気。ダンゴムシたちは、キッチンの暖気に気がついた。やがて恐る恐る移動を始めた数匹のダンゴムシは、植木鉢からキッチンの方向へ、難渋しつつも進んでいった。そして、カウンターからキッチン側に張り出していた、四つ折新聞紙の山折り部分から、ぽろりぽろりと一匹残らず滑り落ちてしまった。

巨漢姉妹の母親は、冷蔵庫からサーモンマリネの材料を取り出して、大き目のプレート皿に盛り付けた。
「そろそろご飯だよ!」手を伸ばしてミニトマトをもぎながら母親が言うと、「はあい」とテレビを見ながら姉妹が応えた。
母親は、スライスしたミニトマトと瓶詰めのケーパーをサーモンマリネに添えてから、食卓の準備に取り掛かった。「お菓子やめなさい!」

ダンゴムシたちは、吸い付けられるようにサーモンマリネに落下した。感覚器官が麻痺するほどの好ましい刺激臭!ところが、あまりの冷たさに手も足も出ず、結局丸くなる他なかった。「もっと寒い!」
やがて、硬くなった数匹のダンゴムシに、ワインビネガーやオリーブオイルが染み込み始め、硬い甲殻が柔らかくなり、ひとまわり膨らんだように見えた。
冷たいマリネ液にふやけてしまったダンゴムシたちは、それでも丸めた体を固持しつづけた。もはや触角さえ動かなくなっていたけれども。

かくして、記録的猛暑となった7月某日、ミニトマトの小さな植木鉢にいた数匹のダンゴムシは、その家の巨漢姉妹に丸飲みされたのであった。

2008年1月 文章学校 『火星パンダちとく文学』所収

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