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空爆を、見たことがあるか(How Modern Bombings Look 邦訳)

この記事は、Global Inequality and More 3.0 に投稿された"How Modern Bombings Look (The bombing of Belgrade in 1999)" by Branko Milanovic (2月25日)の邦訳です。
Original: https://branko2f7.substack.com/p/how-modern-bombings-look


キエフがロシアに爆撃されたと知って、ベオグラード(人口150万人)が1999年の春にNATO軍に空爆を受けた記憶が蘇ってきた。痛ましい記憶だ。そのとき私はベオグラードにおらず、アメリカで毎晩空爆を眺めていた……心が耐えられる限り、だが。
空爆の様子を見ている間、何の感情も抱いていなかった。よく知っている家や通りが、以前住んでいた、いや今でも借りているアパートが、近くで起こった爆発の炎に照らされている。それを見ながら、心はほとんど麻痺していた。心がどこかに行ってしまったみたいだった。
空爆は78日間続いた。思い返してみると、たぶん私は空爆が始まって数日したときニュースを見るのをやめたと思う。私にとってあの78日は、今でも靄がかかっていてよく思い出せずにいる。
(2003年にイラクのバグダッドが空爆を受けたときも、もちろん今も、空爆の様子を見れずにいる。)

あの78日間、家族と友人のほとんどはベオグラードにいた。20世紀の終わりに起こった精密爆撃の下での経験を、いくつか書き留めておきたい。
NATO軍による空爆はいつも夜だった。爆撃機は高高度を飛んでいるため、セルビアの防空システムはなすすべがない。
おそらく米軍機は何百回となく出撃していたが、撃墜できたのは1機だけだった(パイロットは脱出していた)。ほとんどの場合、米軍機が出撃したのはイタリアのアヴィアーノという町にある空軍基地からだったが、中にはアメリカ本土の基地から十数時間かけてベオグラードまでやってきて、1時間かそこらだけ爆撃を行って、そのまま帰っていくものもあった。

当初は、NATOの想定としては、セルビアは間もなく降伏するはずだった。(セルビアの法に則った選挙で選ばれた独裁者であった、ミロシェヴィッチ大統領が、コソボから兵を引き上げるはずだった、という意味だ。そのころセルビア軍はコソボで任務を遂行して残虐な行為を行っていたか、あるいは始めたところだった。)そのため初めはNATO軍は市民を標的としていなかったし、標的となったのはほとんどが空っぽの構造物だった。たとえば、様々な省庁の庁舎(特に国防総省と内務省の庁舎は狙われたが、それ以前に避難が完了していた)、軍参謀本部、ミロシェヴィッチ大統領の私邸、社会主義政党(厳密には共産主義政党)の本部、などだ。
この空爆はあくまで儀式のようなものだった。残っているのはほぼ誰もいなかったし、文書はすべて持ち出されるか焼却されるかしていたからだ。唯一ミロシェヴィッチ大統領の私邸だけは例外だった。NATOはミロシェヴィッチを捕らえて殺害したいと思っていた(詳細は後述する)。

私の家族と友人はどう行動したのだろうか? 過度に怖がることはなかったし、空爆はせいぜい数日しか続かないと思っていた。空爆が始まって3日が経った時点では、みんなそう思っていたのだ。大きい建物の地下で夜を明かす人も、自分の家の寝室で眠る人もいた。
私の友人の一人は、自室から避難するのは絶対に嫌だと拒否していたという。というのも、アメリカが民間人を標的に空爆を行うことはないと思っていたし、米軍の空爆は非常に正確だったからだ。むしろ、セルビアの防空システムが米軍機を撃墜して、破片が家の上に降ってこないか、とばかり怖がっていた。天地が崩れ落ちるんじゃないかと心配していた古代中国の人にちょっと似ているかもしれない。

空爆が行われるのは夜だけだったので、昼間の暮らしはいくぶん普段どおりだった(空爆は3月から6月の頭まで続いた)。生活必需品が足りなくなることはなかった。日が沈んだ後、サイレンが鳴ればみんなシェルターに駆け込むか、家に帰っていくだけだった。
米軍が好んで使った兵器は、高性能巡航ミサイルであるトマホークだった。友人いわく、ミサイルが川の水面スレスレで1キロ近く飛び続けて(ベオグラードには川が二本ある)、川が曲がるところでミサイルも曲がり、川岸にある標的に命中するのが窓から見えたらしい。まるでゲームの世界に迷い込んだようだった。

しかしセルビアが降伏する気配は一向に現れず、NATOは次なる一手を打つことにした。火力発電所、工場、精錬所などを標的に定めたのだ。空爆されて起こる火事は凄まじいものだった。私は後に、このときの被害を推計しようとチームで取り組んだのだが、非常に難しい試みだった(工場が破壊されたとして、そのときの会計上の価値で計算すればいいのか、それとも正味現在価値で計算すればいいのか?)。確か推計の結果は250億ドルだったと思う(報告書を探してきて正しい数字に後で書き換えておきたい)。

それでも降伏の気配は現れなかった。そこでNATOは「二重用途施設」というアイデアを捻り出した(かの優秀で皮肉屋の報道官、ジェイミー・シェイがそう名付けたのだ)。
軍事用にも民生用にも使えるものはいろいろある。たとえばパン屋……パン屋は兵士にも民間人にもパンを売っているじゃないか、という理屈だ。
やり口は卑劣になってきていた。
その上、NATOはいわゆる炭素爆弾を使うことを思いついた。炭素が電線に積もってしまい、送電システムはおしゃかになってしまったため、ベオグラードは全体が闇に包まれていた。元通りになるのに丸一日かかることさえあった。
電気が来ないということは、大きいアパートでは水も使えないということである。トイレも動かない。エレベーターも止まる。マンションの20階に住んでいた友人は、外に出かけて地上に降りることはほとんどなかった(ご近所でタッグを組んで、若い衆にパンやミルクを買って持ってきてもらっていた)。

ベオグラードが幸運だったのは、橋が無事だったことだ。すべてがその橋なしでは成り立たず、もし橋が壊されていれば、ベオグラードは壊滅していただろう。毎晩、信じられないほど勇敢な人が100人や200人橋の上に集まって、歌を歌いながら、死を覚悟していた(もちろん死にたくはなかった)。幸運なことに、誰も死ぬことはなかった。どうやらフランス大統領のジャック・シラクが橋を標的から外すよう主張したらしい。
一方で、セルビア第二の都市であるノヴィ・サドでは、3本の橋が爆破された。

NATOはクラスター爆弾と劣化ウラン弾を使用していた。もちろん両方とも、アメリカが批准している国際条約によって禁止されている。
クラスター爆弾によって死んでしまった子どももいる。劣化ウラン弾は、長期的に見ればがんを引き起こす確率が高いと言われている(異論もある)。劣化ウラン弾の被害が最も大きかったのはコソボだった(コソボで最も多くの劣化ウラン弾が使われたからだ)。しかし、コソボの市民は空爆を解放と捉えていたため、劣化ウラン弾によって病気が増えたかどうか後から調べようとする気運があまり起こらなかった。

私がこの経験について重い口を開くとき、いつもあわせてアメリカが中国大使館を爆撃したことについて質問される。在ベオグラード中国大使館は、私のアパート(先程も言った通り、借りてはいたが当時住んではおらず、私の友人がそこにいた)からたった300メートルしか離れていなかった。そのときその友人が感じたのは、ただただ爆風と轟音だった。近くの建物の窓は軒並み大破していった(その友人の家の窓は無事だった)。その空爆のせいで、中国人のジャーナリスト3人が亡くなり、怪我をした人はもっと多くいた。
あれは手違いだったのだろうか。
アメリカによれば、表面上、そのときの空爆の対象は、特別物品の輸出管理局(つまり武器の輸出を管理する部門)だということだ。しかし輸出管理局の建物はもっと大きいし、形もまったく違う。だから私は、あの空爆は決して手違いなどではなかったのではないか、と疑っている。「アメリカは外交施設は爆撃しないだろうという見立てで、ミロシェヴィッチ大統領は中国大使館で一夜を明かした」という噂が流れた(私でさえ聞いていた)せいで米軍はあの爆撃を行ったのではないだろうか。あれは事故ではないはずだ。

もちろん、当時は、セルビア出身の世界的テニスプレイヤー、ノバク・ジョコビッチが、日中だけしか練習できなかった(しかもプールで!)時期でもある。ニュースでこの話が紹介されるとき、たいてい笑い話のような扱いを受けているが、この話は面白さとは対極にあるような話だ。本人が言う通り、この経験は、ジョコビッチの人生の中で、トラウマとして残っているようなものなのだ。

戦争は楽しいものじゃない。少なくともベオグラードでは、ろくなものじゃなかった。サラエボ包囲戦でセルビア軍に砲撃された犠牲者にとっても、ろくなものじゃない。
そして今、キエフでも、戦争は楽しいものじゃない。
キエフを爆撃しようと決断を下した人は、いったん自分で爆撃を受ける町で過ごしてみてほしい。きっと攻撃命令を下したことについてよく考えざるを得なくなるだろう。
第二のベオグラードを作り出してはならない。二度と戦争はごめんだ。そう願っている。


補足

いくつか意訳した部分があります。訳に関する不備はすべて私・かそあの責任ですので、ご指摘お待ちしております。
特に大幅な意訳については下に記しておきます。

第二段落の原文 "The planes flew at high attitude at which…"については、attitudeはaltitudeのタイポと判断して訳しました。

第四段落の原文"A bit like Obelix in the famous comic strip who always fears that the sky might fall on his head."は、このまま訳しても伝わらないと思ったので、「杞憂」と重ねて訳しました。



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