障害者は”善人”とは限らない
Twitterで、@mktkaccount という方が書いていたnoteがバズっていた(当該ツイート・noteは現在は削除されている)。
大まかな内容をまとめてみると、この方いわく、
働いている会社では、発達障害を自称する方が、一般採用で入ってきた。
「私は発達障害だ」ということを入社してすぐ言い始め、サポートを求めた。
まわりはサポートにまわっているが、その人は話を聞く気があまりなく、業務時間を削られてしんどい。
企業に勤める人として、企業への貢献度があまりに違いすぎるのは問題ではないか。
福祉にがんばってほしい。こういう人たちも生きやすい社会を。
ということだ。
このエピソードを見て、数年前、中学生だった頃に、精神障害等を抱える人たちが働く場となっている福祉施設を訪れたときの経験を思い出した。
第一印象としては、彼らは生きている時間のペースがゆっくりである。
なにか話しかけても、当意即妙に、打てば響くように答えが返ってくるということはまずありえない。そもそも言語を解する能力が高くない人たちが多かったように感じた。簡単に言えば、単純な会話ですらなかなか成り立たないのだ。
その人たちは、釣り針を袋詰めする仕事をしていた。一部の人たちは本当にまるで熟練の職人のように作業が早くて、純粋に驚いた。一方で、やはり作業が苦手で、不器用な僕以上に作業が遅い人もかなりの数がいたのは記憶している。
その中に、一般企業への就職を目指して頑張っている方がいたのだけれど、これは厳しいぞ、と思わざるを得なかった。
人の話を聞くのが苦手な人だったからだ。
人の話を聞くのが苦手だと、その後の成長に繋がりにくい。なにか指示を受けたとして、それを正しく解釈して→指示を守り→ときに応用しつつ→動く、というのが苦手な方だった。
一般企業で、会社人として働くときに、今の施設にいるとき以上のプレッシャーを受けて、他の同僚と同じパフォーマンスを出すのは正直むずかしいのだろう、と思わざるを得なかった。
ここで考えてみたいことが一つある。
誰かのことを肯定しようとするとき、「あなたにはこんな美点がある。だから素晴らしい」という論理を持ち出すことは危険だということだ。
それは、「あなたには特に美点はない。だから素晴らしくない」という考えと表裏一体である。
障害者の方々は、正直なところ、「接していてしんどいなと思う人」はけっこうな数がいた。 (これは申し訳ないとは思うんだけれど、自分の素朴な感情は否定できないので書いておく)
人の話を聞かないし、理解してくれない、話が通じている気配がない、というのは、接していてしんどい。しんどい、というのは、対人関係のコストがかなり高い、というのと同義である。その高いコストを支払ってまで、よく知らない人と腹を割って話そうとするのは、なかなか私には難しいことだった。
ここで私が得た視点が一つある。
「福祉」は、「どんな人にでも、特に論理的な理由なく生きる価値があると認められるべきだ」を出発点にしなければならないのだ。
そこにプラスアルファで、「可能であるならみんなが少しでもより充実したよりよい人生を送れたらいいな」ということも大事な価値観になってくる。
ここで、「どんな人にでも、特に論理的な理由なく生きる価値があると認められるべきだ」という点が感情的に非常に難しい部分を孕んでいるのだ。自分が接していて、ああしんどいな、と思っている人に対しても肯定的に接するというのは、並大抵の覚悟でできることではない。
少し前に「ギフテッド支援」がニュースになったとき、私は少し複雑な思いを抱いていた。この「ギフテッド支援」によって、「優秀だったりして周りと合わず、しんどい思いをしている人」が救われるのなら、もちろんそれは歓迎すべきことである。
一方で、「特になんの社会的に認められる才能もない人」たちの存在は、より見えづらくなっているのではないだろうか、とも感じてしまった。
「特に社会的に認められる才能がなくて障害がある人たち」を切り捨ててはならない。
壁にうんこを塗りたくるのに才能がある人(面白がって言っているのでなく、本当にそういう人もいるのだ)も、きっと切り捨ててはならないのだ。これはあくまで理想論的だと言う人もいるだろうし、逆にあまりに露悪的だという人もいるだろう。その指摘は正しい。しかし、私の感情として、「誰もが接したくないような人」が切り捨てられるような社会であってほしくはない、とは素朴に思う。
こういった感情に、実は理由がある。
私は自分に自信がないからだ。
おそらく私のこの感情は、対人関係において、相手が自分にどのような「価値」を見出すのか、悩んだことがあるからだと思う。
自分で言うのはなんだけれども、私はけっこう勉強ができるし、割と上品な(?)タイプで、割合に人の尊敬を集めやすい人生を生きてきたような自覚はある。
では、もし自分のこういった特性が失われてしまったとしたら?
すでにかなり仲の良い友だちになっている人は、それでも変わらず付き合いを続けてくれると思う。しかし、これから先出会う人や、関係の浅い人から向けられる視線は、大きく変化してしまうのではないだろうか? と、私なんかは臆病になってしまうことがたまにあるのだ。
要するに何が言いたいのかというと、人間が相手に下す価値判断というのは、明らかに「相手が持っているわかりやすい美点」に大きく影響を受ける、ということだ。
しかも、その「美点」が失われることは案外簡単に起こりうるんじゃないか? と思う。
新しい環境に入ると、「自分より頭のいい人」「自分より親切な人」は絶対にいる。そうしたとき、自らもアイデンティティを失うことになってしまうのではないか?
この先自分が人生のレールをいったん大きく踏み外さない保証はどこにもない。そういったことを考えると、とてもじゃないが、「人を切り捨てやすい社会」には生きたくない、と思う感情はあるのだ。
一方で、我々が資本主義的な社会に生きていて、その恩恵を受けながら生きているということには目を向けなければならないだろう。 資本主義というのは、資本を生産するのに役に立たない人間は切り捨てがちという特性を持っている。それは厳しい。しかしながら、その厳しさに泣く人が存在している一方、それには脇目もふらずに、資本主義経済は発展していくのである。
そして我々「一般人」は往々にして、その恩恵を受け取る側の立場に立っているということは正しく認識しなければならない。
福祉というのは、きっと、「(私にとっては)感情的にあってほしいもの」だが、「現実のハードルはものすごく高いもの」であるのだ。
少し話は変わるが、この施設に行って、もう一つ衝撃を受けたことがある。
全員が全員実家ぐらしだということだ。
考えてみれば当たり前だ。彼らの作業の時給は50円とかそれくらいだったのだ。彼らは、数十年後、親が亡くなったあと、どうやって生きていくのだろうか?
……こう考えると、恐ろしくなってしまう。
私は、こういった問題領域にどのように国家が介入すべきか(あるいはすべきでないのか)について特に定まった考えは持ち合わせていない。正直まったくわからないし、そのせいでこのnoteも尻切れトンボである。
ただ、偽善と言われてもいいから、ちょっと頭の中にこのことを留め置いて貰える人がいれば、私としては嬉しい限りである。
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