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風薫る晴れた日に外を歩くあの感じ|安達茉莉子

 風薫る、と最初に言ったのは誰だろう。

 「くんぷうなんらい」(薫風、南より来たる)と、中国の唐の時代の詩にも詠まれているそうだ。日本でも俳句の季語として、時候の挨拶として、あるいは日常会話の中で使われる言葉だけれど、子どもの頃、最初に知った時は感動した。幼心にも、風とは薫るものだった。かぐわしく、新緑の香りを運んで。

 風薫る五月、びゅうびゅうと吹き荒れる風に吹かれながら、私は地元の和菓子屋に並んでいた。その日は五月五日。古来、薬草によって邪気を払い健康を祈念するための節目であったといわれる端午の節句。私にとっては、柏もちを食べることになっている日だ。家から近い、妙蓮寺の和菓子屋に朝の10時頃から向かった。案の定行列ができていた。前日にふと「そうだ柏もち」と思い出して向かったところ、午後のさほど遅くない時間に既に売り切れていたので警戒したのだが、妙蓮寺の住人を甘く見ていた。

 並びながら、いくつにするか真剣に悩む。ひとつでいいんじゃないか。いや、ひとつ食べたくらいでは柏もちの詳細がよくわからない(?)とか言って、もうひとつ食べたくなるのではないか。さすがに食べ過ぎでは? ひとつにしておくのが、大人の道楽というものなのではないか——結局三つ買った。しかし、いつからこんなに和菓子を食べることが趣味のひとつになったのだろう。昔は食に興味はなかったはずなのに。

 和菓子には季節が含まれている。ある時期にだけ実る果実のように、四季がひとつひとつ職人の手によって表象され、食感にされ、味にされ、小さな形になってちょこんとケースの中で誰かにきょうされるのを待っているのを見ると、人類はすごいものを作ったな、と畏敬の念を抱く。繊細で小さな宇宙のようだし、柏もちのように「型」がはっきりと決まっている、お決まりの演目のような和菓子を食べるのも楽しみがある。店の奥で柏もちをまさに今作っている職人さんが見えた。一つ一つ、こんなにもぽってりとかわいらしい、それでいて繊細なものを、すごい速さで。

 和菓子屋を出ると、ビニールに入ったしょうを抱えて歩いている人とすれ違った。去年も一昨年も端午の節句をあっさり逃した私が思うよりも、人々はちゃんと端午の節句をやっている。そこには何か、安心感があった。端午の節句に柏もちを食べたい。それが生活の中で優先されている。優先度が低そうなことのために、真面目にならんでいる人たちを見ると安心する。忙しくても授業参観にちゃんと来てくれるような、誕生日を覚えていてくれているような、ちゃんと桜の花が咲いていると気づいてくれる人のような。簡単に大事にされなくなりそうなことを、大事にしてくれているような。それはつまり、私が愛する季節の変化を、見過ごさないでいてくれる人たちがいるということだった。みんなただ、この時期には柏もちを食べるものだから食べるのだと、プログラミングされているだけかもしれないけれど。

 すぐ近くにある、馴染みの本屋である石堂書店に差し入れに行った。店頭にいた二人に柏もちを渡すと、五月五日に食べるっていいね、ととても喜んでくれた。

 「この葉って食べられるんでしたっけ?」
 あれだけ柏もちに執着していたのに、一瞬わからなくなって、聞いたら大笑いされた。
 「桜もちじゃないんだから」
 どっちがどっちだったか毎年わからなくなる。でもそうやって誰かに確かめて食べるのって、なんかいい。

 その日は夕方からオンラインのトークイベントを予定していた。「黄金の夕暮れをただ味わう」と、ゴールデンウィークにかけたタイトル。私は部屋からするオンラインのイベントが好きだ。誰かの部屋の背景が見える。本にブックカバーを掛けずに電車で読んでいる人を目にした時のように、なんだか安心する。

 その日はよく晴れていて、このまま数時間で黄金の夕暮れは訪れそうだった。午後3時を過ぎた頃、まだ日は高い。「黄金」と形容するにはまだまだ日差しは透明で、柔らかく降り注いでいる。

 私の前を歩いている人に目が止まった。私と同年代くらいの女性で、着物を着こなしている。

 なり色の着物が、初夏のまだ湿気のない午後の日の光を淡く照り返していた。渋い濃茶のこうがらの帯と、それに合わせて編んだカゴのようなバッグを持っていた。綺麗にまとまっているなと思ったら、風が強く吹きはじめて裾が乱れ、あさ色のながじゅばんが見えた。青みがかった緑色のコントラスト、色合わせが美しい。おそらくはウィリアム・モリスのパターンを使ったグレーの日傘が、煽られながら日差しを柔らかく受け止めていた。

 これが「いき」なんだな、と思わず見惚れた。彼女は着物にとても馴染んでいて、彼女と共に現れた美は調和しきっていて、どんなに風が強く裾をはためかせても、崩れなかった。見惚れているあいだ、美はこんなふうに一瞬一瞬美しさを表すものなんだ、と考えていた。

 歩きながら自分が着ている服を感じてみた。その時も好きな服を着ていたけれど、やはり着物となると、モノとしての細やかさが全然違う。

 ある言葉を思い出していた。昔住んでいた、兵庫県ささやま市(現・丹波篠山市)の山の中にある廃校を訪ねたときに出会った言葉。時折地元の人が掃除を行なっているというその小学校は、がらんとしているけれど清潔で、暗さはなく、子供たちさえいれば、今からでもまた学校として何事もなく始まりそうだった。黒板には、大人の書いた字でこう記されていた。

 「一期一会に清風の吹く自分であれ」

 チョークで書かれたその文字は、いつ書かれたのか、誰が書いたのかわからない。わかったことは、誰も消さなかったということだった。

 一期一会に清風の吹く自分であれ——。できるかはわからないけれど、風を感じることくらいはできるかもしれない。あの着物の人のように、差し入れを喜んでくれた人たちのように、菖蒲を抱えていた人のように。こちらで勝手に、風を感じるから。

 家に帰ったら、玄関に放り込まれていたチラシが散らばっていた。拾いあげると、「着物買取」の文字が目に入った。お茶を淹れて、実は帰りがけにもう一個だけ買ってしまった柏もちをぺろりと食べて、葉をくんくんと嗅ぐ。黄金の夕暮れは近い。私もいつか、着物を着るのかもしれない。その時、一期一会の風は、吹くだろうか。

連載『あの時のあの感じ』について 
今、私たちは、生きています。けれど、今を生きている私たちには、自由な「時間」が十分になかったり、過ぎていく時間の中にある大切な「一瞬」を感じる余裕がなかったりすることがあります。生きているのに生きた心地がしない——。どうしたら私たちは、「生きている感じ」を取り戻せるのでしょうか。本連載ではこの問いに対し、あまりにもささやかなで、くだらないとさえ思えるかもしれない、けれども「生きている感じ」を確かに得られた瞬間をただ積み重ねることを通じて、迫っていきたいと思います。#thefeelingwhen #TFW

著者:安達茉莉子(あだち・まりこ) 
作家、文筆家。大分県日田市出身。東京外国語大学英語専攻卒業、サセックス大学開発学研究所開発学修士課程修了。政府機関での勤務、限界集落での生活、留学など様々な組織や場所での経験を経て、言葉と絵による作品発表・エッセイ執筆を行う。著書に『毛布 - あなたをくるんでくれるもの』(玄光社)、『私の生活改善運動 THIS IS MY LIFE』(三輪舎)、『臆病者の自転車生活』(亜紀書房)、『世界に放りこまれた』(twililight)ほか。