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やさしい人|常識のない喫茶店|僕のマリ

本連載の書籍化が決定しました(2021年8月4日付記)

 最近、新人さんが入ってきた。緊張しているのか、初期のバイオハザードのゾンビみたいにカクカク歩いている。常連の耳の遠いおじいさんに全ての質問をシカトされて困っている。混んだ時に焦りすぎたのか架空のオーダーを伝票に書いている。飲食店で働くのが初めてだそうで、慣れないことを覚えるのは大変だよね、と励ましながら共に働いている日々。

 働き始めて4年目のいまではもうほとんどの同僚が後輩なのだが、教えることは難しいと常々思う。かつては教員を目指していたのだが、その道を途中で諦めてしまったのは、自分にその素質がないとわかったからでもあった。喫茶店の仕事は優雅なイメージを抱かれがちだが、全然そんなことはない。汗水たらしまくっている。洗い物をやっているときの水圧がやばすぎて床がビショビショになっている。マスターに関しては一生懸命洗いすぎて股間のあたりがビショビショになっている。とにかく忙しいなかでこなさないといけないタスクが多いので、慣れないうちは右往左往してしまうのも仕方ない。身体に染みついている仕事を、言葉を使って一から教える。重大任務だ。丁寧に教えようとすると説明が冗長になってしまうし、勤続歴こそ長いがお手本になれるほどの自信は持ち合わせていない。それでも一生懸命仕事を覚えようとする新人さんは健気でいじらしい。

 わたしが新人の頃、店がメディアに取り上げられ話題となり、とても忙しい日々が続いた。それはコロナ禍であるいまでも変わらずありがたいことなのだが、当初はやっていけるか不安で仕方なかった。わたしは要領が悪く、一回ミスをするとそのショックを引きずり、更にミスを重ねるとんでもないおバカさんであった。グラスを割る度に心も粉砕、注文を間違えてしまった日には絶望で虚ろな目になる。しかし、面接の時に「やさしい人しかうちでは働けない」とマスターが何度も言っていた通り、みんな本当にやさしかった。失敗を責められたりすることはない。「大丈夫だよ」と言われるたびに、いつかこの安らぎを与える側になりたいと思った。

 他人を思いやるということは難しい。何を「やさしい」と言えるのかは一言では説明できない。やさしさの形は人それぞれで、思い描く像も違うだろう。だからこそ、善意が届かなかったり、悪意はないのに勘違いされて溝が生まれてしまうことがある。これまでの人生で、そういうディスコミュニケーションで心がたわむたびに、人と関わることを諦めてしまいそうになっていた。それが近年変わりつつある。「これお願いしてもいいかな?」と人に頼んだり、「こういうことがあってすごく嫌だった」と言えるようになってきた。仕事中に「焼き肉食べに行こう」とか「今夜飲みに行きませんか?」という誘いまでできるようになった。ずっと受け身だった人生からは想像も付かない現在だ。

 やさしさは色んなかたちをしている。疲れているときに差し出されるチョコレート、貧血気味のときの鉄分入りジュース、元気がないときの「どうしたの?」という一言。どんなときも、その心遣いにうれしくなる。「髪の毛切ったね」「今日の爪の色可愛い」という些細な変化への一言も、自分を見てくれている、という安心感に満たされる。「マリちゃんの作ったクリームソーダ、アイスがまんまるできれい」と言われたときは、照れ隠しで「ありがとう。きんたまをイメージして作っています」と返答した。

 喫茶店で働く傍らで、こうやって執筆の仕事をしている。言葉を扱う仕事だから、言葉が怖い。何を伝えるにしても、言い方一つで傷つけたり、誤解を生んだりすることがある。でも、言葉ひとつで誰かに寄り添うことだってできる。「ありがとう」「大変だったね」という一言で心が和むたび、その可能性を強く感じるのだ。とにかく話をすること、相手を知ること。マスターがいつも「仕事中のおしゃべりは自由」と言っている理由は、こういうことなのかもしれないと最近気づき始めた。 

 ある日、わたしの友人が差し入れを持ってお店に来てくれた。袋のなかには有名店のパンが3つも入っていた。体力仕事はお腹が減るのでありがたい。早速同僚と分けて食べようと温めた。彼女は「マリちゃんがもらったんだよ」と何度も遠慮したが、最終的には二人で分け合って「おいしい、おいしい」と頬張った。やがて同僚と共に退勤時刻を迎え「お疲れ様、じゃあまた明日ね~」と、わたしはお手洗いに入った。お手洗いから出てきたら、すぐに帰ったと思っていた同僚が「パンいただきました。ごちそうさまでした」とまだ店内に残っていた友人に頭を下げていた。そのまま彼女はすーっと帰っていったが、(ああ、わたしはこの子のそういうところがすごく好きなんだよなあ)と思った。誰かが自分の大切な人を大切に扱ってくれる瞬間、得も言われぬ幸福に包まれる。それはまるで自分を肯定されたかのように温かくて気持ちがほぐれる。

 いままでわたしは、人のいやなところばかりに目を向けていた。仕事だから割り切らないと、と思いつつも、自分を棚に上げて「こんな風にはなりたくない」なんて荒んだ気持ちで過ごしていた。接客業ゆえ、もちろんいまでもそういう瞬間はあるし、憤慨したり落ち込んだりもする。それでもいまは、「こんな風になれたら」と思う瞬間のほうが圧倒的に多い。されてうれしかったこと、救われた言葉をひとつひとつ噛みしめて、誰かの心の拠り所になりたいとさえ願うようになった。わたしは心が弱かった。弱かったから、他人を卑下したり貶したりする方法で自分を保っていたのだろう。いまでもおそらく、普通の人よりは脆弱な精神だと思う。それでも、人の長所に眼差すことができるいまは、少しは成長できたのではないか。

 しかし感情とは厄介なもので、たとえば同僚がむくれていたりヘソを曲げていたりしても、それすら可愛いなと思う自分がいる。昔は遠慮して何も言わなかったが、いまでは「ねえ、もしかしてちょっとキレてる?」という絶妙にウザい絡みをする。そうすると、フッと笑い「……うん」と認めるので、アハハと笑いあう。長い付き合いになればいいなと思う。「おばあさんになっても遊ぼうね」なんて甘ったるい約束を交わした。

 かねてより「たべっ子どうぶつ」というお菓子が好きだとよく公言していた。ギンビスという老舗メーカーの動物の形をしたビスケットで、グッズも販売されている。ある日先輩が「これ好きだったよね」と「たべっ子水族館」のガチャポンをやってきてくれた。中を開けると、シロクマが呑気そうに笑って片手を上げている、小さなフィギュアが入っていた。彼女がこのガチャポンを見つけて、お金を払って(そのときちょうど小銭があったのかもわからない、わざわざお札を崩してやってくれたかもしれない)、わたしのためにレバーを回したその風景がすぐに思い浮かぶ。喜んでいたら、周りの人もやってくれた。おかげさまでもうすぐコンプリートできそうだ。部屋のいちばんよく見えるところに置いた「たべっ子水族館」のシロクマやクジラがにんまりと笑っている。今日も頑張れそうだ。

僕のマリ(ぼくのまり)
1992年福岡県生まれ。物書き。2018年活動開始。同年、短編集『いかれた慕情』を発表。ほか、単著に『ばかげた夢』と『まばゆい』がある。インディーズ雑誌『つくづく』や同人誌『でも、こぼれた』にも参加。同人誌即売会で作品を発表する傍ら、文芸誌や商業誌への寄稿なども行う。2019年11月現在、『Quick Japan』でbookレビューを担当中。最近はネットプリントでもエッセイを発表している。
Twitter: @bokunotenshi_
はてなブログ: うわごと
連載『常識のない喫茶店』について
ここは天国?はたまた地獄?この連載では僕のマリさんが働く「常識のない喫茶店」での日常を毎月更新でお届けしていきます。マガジンにもまとめていきますので、ぜひぜひ、のぞいてみてください。なお、登場する人物はすべて仮名です。プライバシーに配慮し、エピソードの細部は適宜変更しています。