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物語から彼らを「掬う」ために|はらだ有彩×石井雅巳(後篇)

『日本のヤバい女の子』の著者、はらだ有彩さんと、『西周と「哲学」の誕生』の著者、石井雅巳さん。異なる仕方で古典にアプローチするお二人がそれぞれの視点から、古典を読むことの現在性、そしてそこから書くことについて対談しました。(1月13日@ペリエホール/主宰:くまざわ書店 ペリエ千葉本店)
 後編は、語られていない事柄の存在を前提に物語を読むことによって、過去の人物を物語から「掬い」あげられる可能性について、フィクションと史実の両側から、語っていただきました。(構成:楠田ひかり)

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物語から「掬い」あげる

はらだ:私、石井さんと私の古典の読み方がちょうど真逆だなと思っていて。それは私が古典を体系的に理解していないからなのかもしれませんが、私の場合は関心から逆引きしていって物語にたどり着くんです。というのは、たとえば『日本のヤバい女の子 静かなる抵抗』に、「とりかへばや」というお話を取り上げているのですが、これは、双子みたいにすごくよく似た男の子と女の子のきょうだいが、男の子は女の子として、女の子は男の子として育てられて、そのまま成長して苦悩の人生を送る、という話です。このお話には、現代と同じようにおそらく昔にも、男の子みたいに生きた女の子や、性別を隠していた女の子がいたのだろうなと思って、そういった問題意識から逆引きしていってたどり着きました。
『日本のヤバい女の子』にも男装していた女の子が出てきます(「女右大将/有明の女御」)。この女の子は男装した状態で女の子と結婚していました。このお話も、むかし、女の子同士で結婚していた人がきっといたのだろうなというところから調べていって、たまたま見つけました。

石井:なにをめがけて書いているかというところが、僕とはらださんは違っていますよね。僕は、はらださんの読み方も魅力的だなと思っています。研究論文とは別のスタイルで、僕にはないものですし、古典を読むときにはすごくおもしろい視点だと思います。実は、はらださんのご本を何度か読みなおしているなかで一つキーワードかなと思ったところがありました。『日本のヤバい女の子』の「はじめに」のところに、こういう一文があるんです。

時に勇気づけられ、時に憎んできた物語の行間から、必要なものだけを掬いあげ、明日も、明後日も生き続けていく糧にする。

石井:僕が「これは!」と思ったのは、「掬い」あげという言葉です。「救い」じゃないんですよ(編注:石井さん、ホワイトボードに「掬い≠救い」と書く。下の写真の参照)。ここにはらださんの文体というか、語り方の核があるのかなと思いました。

石井さんによる板書

石井:『日本のヤバい女の子』には、様々な女の子たちだけでなく、いろんな登場人物(なかには人ならざるものもいますが)が出てくるわけですが、そのときの語り方として、どうしても研究者や評論家は「救い」たがってしまうことがあると思うんです。
 僕も「救い」たがるところが西周(にし・あまね)に対してあるなと思います。先行研究ですごく批判されていたけれど、それをひっくり返したい、いわば名誉を回復したいと思うけれど、それってすごく上から目線なところがありますよね。
 そうではなくて、「掬い」の場合は、もっと等身大にその人物に接しているからこそ出てくるように思います。同じ『日本のヤバい女の子』のほうに「物語に従わないこと」という言葉が出てくるのですが、それも、そういう接し方の表れだと思っています。
 たしかにこの本では物語を扱っているのですが、登場人物たちは現実にいる一人の女の子としてそこにいるように感じます。さまざまな物語が語り継がれているなかで、おそらくそのうちのいくつかには、モデルになった女の子や、あるいはモデルでなくても似たような境遇の女の子はこれまでたくさんいたはすで、はらださんは、そういう子たちを物語からまさに「掬い」あげている。研究というかたちで、証拠はこうだからというようにやっていると、いつまでたっても「掬い」あげられないんです。そこがやっぱり僕にはできていなかったところであり、はらださんの古典の接し方のポイントになっているところだと思います。そういったときの心がけや関心はあったりしますか?

はらだ:書かれたものには、必ず、なんらかの原因となる事象があったはずなんです。それはフィクションでも、そうでなくても同じかなと思います。たとえばアニメって、全部描かれているものに意味があるじゃないですか。6年くらい前に『黒子のバスケ』のエンドカードについてのオタクの人の考察が話題になっていた記憶があるんですが、これはざっくりいうと、『黒子のバスケ』の火神くんと黒子くん、青峰くんと黒子くんの関係性が、エンドカードに描きこまれた鞄やボールの状態に示されているというものです。支えあっている火神くんと黒子くんの鞄は寄り添いあっているけど、葛藤を抱えている青峰くんと黒子くんの鞄は離れて散らかっている…あらゆる関係性がこの一枚に示されている…!というような。それに対して「そこまで考えているわけないだろう」という人もいて、ちょっと論争になるということがありました。

石井:オタクの人たちはそこに「物語」を見いだしたんですね。

はらだ:そのときに私は、火神くんと黒子くんの鞄がもたれかかっているということには絶対に意味があると思いました。なぜかというと、人の手が描いたものだから。
 わざわざ描いているんですよね。描くときってなにもないところから描くから、なにかのつもりで描くじゃないですか。そのときには絶対になんらかの理由があります。
 でも、その理由がなんであるかは、私の推測はどこまでいっても推測にすぎないんだと意識的に思うようにしています。というのも、その理由を私がわかった気になると、さっき「聞きたくね~~! 知らね~!」(前編「一つの意見から「私」を決めつけるな」と言っていたような、彼女はこうだったと決めつけるようなことに加担してしまうだろうと思うんです。今残されているものには、変えられて残されたものもあれば、変わらずに残されたものもあって、それはもうわからない。その一方で、今残っているものそれ自体にはなにか絶対に手がかりがあると思っています。
 私がそれをすごく感じたのが、『日本のヤバい女の子 静かなる抵抗』に入っている『今昔物語』の一話で、「尾張(おわり)の国の女、細畳(ほそだたみ)を取り返す語(はなし)」という話について考えていたときです。どういう話かというと、聖武天皇の時代に久玖利(くくり)くんという男の人がいて、彼の妻である「尾張の国の女」はものすごく怪力なんです。あるとき、久玖利くんは尾張の国の女がつくってくれたすごくきれいな着物を役人にカツアゲされてしまいます。尾張の国の女は怪力を生かして役人をビビらせて着物を取り返したものの、なんとそれが原因で離婚を言い渡されてしまいます。久玖利くんの両親が、息子が役人から恨みを買うのではないかと心配して、結局、尾張の国の女は実家に帰されるんです。その後、尾張の国の女が実家に帰ってようやく落ち着いてきたなと思って川で洗濯をしていたら、商人の乗った船が通りかかって、そいつらが尾張の国の女にウェーイ!って絡んでくるんですよ。そこで尾張の国の女は、「あんまりチョケてたら今に痛い目見んで」と言って警告するんですけど、逆ギレした商人があろうことか石や荷物を投げてくるんです。そのあと、尾張の国の女はその商人をボコボコにして、スカッとするみたいな話です。

石井:船を陸の1キロ沖ぐらいまで運んで動かせないようにしちゃうとかね(笑)。

はらだ:そうそう、一番いやな方法で仕返しするんですよね(笑)。この仕返しのシーンで彼女が言ったセリフがあって、「何の故に諸の人、我を掕(りょう)じ蔑(あなづ)るぞ」、つまり「なんでどいつもこいつも私のことを軽んじてくるの?」とひとこと言っていて。
 彼女はすごく力持ちで、役人にも商人にも余裕で勝てるし、今まで災難を自分で払いのけてきたので、それを見ていると、平気なのかなって思うじゃないですか。私が勝手に「彼女はなんか平気そうでした」と言うことだってできちゃう。でも、「なんでどいつもこいつも私のことを軽んじてくるの?」「なんでなん?」って訊いているそのたったひとことに、ほんとうは全然平気なんかじゃないんだ、ということがにじみでているなと思いました。そういった細かいことを全部取りこぼさないようにしたいなと思っているんです。それで「掬う」という言葉を使っているんです。「魂は細部に宿る」って言葉がありますよね。それをもじったと思しき『デザインの魂は細部に宿る』っていう、DTPデザインの細部を解析するハウツー本がちょっと前にあって…まあそれは余談なのですが、そんな風に、書かれて残されていることや、意図がなかったとしても表象として出ていることには意味があって、それはあとから勝手に書き変えてはいけないということだけは意識しておこうと思っています。

聞いてるはらださんとしゃべる石井さん。

〇古典を読むことのジレンマ

石井:物語や神話のたぐいは、似た話があったり、地方によっていろいろな伝えられ方をしていたり、有名なお話一つでもいろんなバージョンがありますよね。そうすると、上から目線だと、類型化したくなってしまう。これは同じ構造とか、これは怪力女のジャンルというように。だからたとえば、「尾張の国の女」の話も、現実世界では腕っぷしが強いのは男で、女性は腕っぷしが弱いけど、それのフィクションとして、逆バージョンがたびたび物語の構造として出てきますよね、という具合に片付けられてしまいがちなんです。
 でもそうではなくて、物語の細部を見るというか、語られていることもあれば、語られていないことのほうがもしかしたら多いかもしれないけれど、その物語自体を一人の人として見てみる。それが、一つの読みの態度として重要だと思います。
 ただ、そのような読みが可能になりやすいのはフィクションなのかもしれません。現実の西周についても、伝記をいくら細かく読んであげても、そこに西周は西周としてしか現れない。物語自体を一人の人として見るような読み方は、フィクションだからこそできる接し方なのかもしれません。
 また、もしかしたら、その読みは実のところ、その人を物語から引き剝がしてしまうというジレンマもあるかもしれない。けれども、それがある意味での「掬いあげ」にもなるのかなと思っています。

はらだ:古典を読む「苦しみ」ですね。そのような、言い表そうとしても言い表せない部分があったりとか、言い表さないほうがいいだろうなと思う部分があったりするのは、フィクションと、ノンフィクションや史実の人物とで、異なる部分と共通する部分があると思うんです。その様子が、『西周と「哲学」の誕生』のなかに見受けられるなと思ったところがありました。この本のなかに、しばしば、「これが本書なりの答えです」とか、「みなさんはどう考えるでしょうか」とか、もしかしたらAかBかわからないですけど、よりよい第三のCという答えがあるかもしれませんという言い方をされていますよね。そこに余白のようなものを感じるんです。

石井:そうですね。それは、少しは意識的にやっていたことです。積極的にやった部分もあるし、消極的な部分もあります。
 やはり研究というのは積み重ねなので、僕が重ねた段差は薄くても、その上にまた新しい階段が続いていくかもしれないので、これを決定版だと思って出すつもりがあまりないんです。それに、僕がそこまで行けたのは、それまでの階段をつくってきた人たちがいるからです。はらださんの橋のたとえ(前篇「人類全体で最強の西周をつくる」参照)を使えば、僕は自分が架けようとしている橋よりも、別のもっと効率がよくて頑丈な橋があるかもしれないし、実は崖じゃなくてまだまだ陸続きの道が発見されていないだけかもしれないなと思って書いている部分もあるんです。そこに学問的な誠実さがあるとしたら、他の人が、僕が橋をつくるまでの足跡や、橋のつくり方を追跡できるかどうかだと思うんですね。設計図を残しておけば、他の人が点検できるし、もし僕の橋を気に入ってくれたらその続きをやってくれるかもしれないですよね。あるいは、気に入らずにぶち壊すかもしれない。それはそれでいいかなと思っています。
 同時に消極的な部分もあって、場合によっては逃げですよね。つまり、こう言えるかもしれないけれど、僕はもうここまでにしておこうと思うときはあります。気持ちの半分は、「歴史はつねに開かれていますから」というキリッとした部分もあるけれど、もう半分は、やっぱり間違うかもしれないと思っています。

しゃべるはらださんと聞いてる石井さん。

〇断言できない過去を現在の私たちが語ること

はらだ:過去の人物について今の私たちが断言しないということについてですが、たとえばその逆はどうなんでしょう。つまり、今、西周がこの世に顕現(?)したとしたら、西周から見て石井さんはどういう感じなのでしょうか。

石井:それは考えたことがありませんでした。通説では軍国主義の犬みたいなふうに書かれていたけれど、僕は、そうじゃないよと言ったので多少は褒めてほしいですね(笑)。やはり、人類全体で最強の西周をつくればつくるほどおもしろいという話がありましたが、西周が「俺の考えはまだまだそんなもんじゃない、もっと深い考えがあってのことだ」と私に言ってくるくらいの存在であったほうが楽しいかなと思います。
 ただ、正直に言って、西周その人自体は「掬い」あげたくない人物です(笑)。筆まめで仕事もできるひとでしたが、とにかく酒飲みで、めちゃくちゃ短気です。たとえば、森鷗外は幼い頃島根の田舎から東京に出てきて、最初は西周の家に下宿させてもらっています。そのときに、鴎外はインク壺を畳の上にこぼしてしまった。まだ10歳ぐらいだから、まあ怒るだろうけど、仕方がないじゃないですか。でも西先生はブチギレで、「お前が西洋人だったら今すぐ畳を弁償させるぞ!」と。

はらだ:西洋人だったら?!

石井:よくわからない叱り方をしています。それを鷗外先生は50歳くらいになってから言っているので、きっとトラウマになっているんでしょう。ほかにも、西には子供が二人いるのですが(うち一人は養子)、そのうちの一人が遊んでばかりの放蕩息子だったんです。その子についての怒りを書いたすごくおもしろい日記があって、「朝起床す、怒気甚(はなは)だし」と書いてあります。しかも、そのあと玄関で息子を殴ると続きます。おそらく息子が朝帰りしてきたので、西は目が覚めてしまって、起きた瞬間にブチギレて殴ったんだと思うんですけど、相当短気ですよね。
 だから西周にはそんなに会いたいとは思わないです。その一方で、『日本のヤバい女の子』には、友達になれそうな、会いたくなるような女の子がたくさん出てくるのですが、はらださんの読みによって、彼女たちが成仏したなと思うときが幾度となくありました。

はらだ:成仏したなって言ってくださったんですけど、私、毎日、いつ呪い殺されてもいいように気持ちの準備をしているんです。というのは、怨霊と言われる女の子もいるので、たまに、お祓いしないんですか?って訊かれることがあるんですよ。私、すごいビビりなのですが、でもあえてお祓いしないようにしています。
 お祓いしてしまうと、霊をシャットアウトしてしまいますよね。たとえば、私が言っていることがヤバいお門違いだったとき、女の子たちからしたら「なんか、すげぇドヤ顔で言ってっけど、全然違うんですけど」というときに、最悪、化けて出られるホットラインみたいな感じにしておこうと思って。もしキレて出てきたときに、「すみません、私が間違っていました」と言ったとして、「でももう書いてんじゃん! すみませんとかじゃ全然おさまらないんだけど」となったら、もう粛々と呪い殺されるしかないなと思っています。それが私にできる唯一のことだから。

左:はらだ有彩著『日本のヤバい女の子 静かなる抵抗』
右:石井雅巳『西周と「哲学」の研究』

過去を読むことの現在性

石井:われわれ二人とも、古典なので過去のことを読んでいるわけですよね。さらに言えば、過去のことを現代の関心から読んでいます。それをありがたいことに本にできることは、僕らが死んでも残るということで、未来に投げかけることだと思っているんです。そのときに、どういうことを伝えたいとか、なぜ古典を語るかということについて、なにかお考えはありますか。

はらだ:私は、今の時代性のようなものにすごく紐づけていきたいと思っています。私は芸術系大学でファインアート的なものを専攻していた身として、まああまり制作してませんでしたけどそれはそれとして…。私個人の解釈としては、現代アートとは、今この瞬間の世の中に対してこういう解釈をしているという単発の爆発の連続で、その文脈が続いていくという構造そのものだと思います。なぜ古典を語るかということは、それに近いものを感じているんです。
 つまり、私はできれば『日本のヤバい女の子』が早めに古臭くなってほしいなと思っています。この本は、今の段階では受け継がれた古典がこれだけ揃っていて、それを今生きている者が見たときにこういう感触でしたという感情の単発の爆発を記録したものです。それをのちのち見直した人が、「この時代(つまり現代)の人類のリテラシーヤバいな」と思えたら、そのぶん私が架けようとした橋がのびていて、人類全体では進捗していることになるわけですよね。そのための記録のつもりでいます。

石井:僕の場合は、江戸から明治を扱いましたが、現代とは色々勝手が違います。でも、西周に近づいて、はじめて当時と現代の自分たちのことを重ねる勇気が出たという気がしているんです。それまで僕はけっこう禁欲的でした。僕が研究していた20世紀フランスは、たかだか30年前なのですが、あまり自分と重ねていなかったんですよ。研究のなかだけで質を上げていけばいいとさえ思っていました。
 西周について取りくみはじめてから、同じ日本だからというわけではないのですが、連続性のようなものを考えるようになりました。彼は混乱の時代のなかで、0から1をどうやって組み立てるかということを苦悩していた人です。
 今の社会というのは、一つの見方としては、明治の残骸みたいなものがけっこうたくさんあります。家族制度もそうかもしれないし、天皇制も昔からありますが明治で大きく変わったし、大学ができたのも、藩がなくなって日本という国が整備されてそのなかの県というかたちになったのも、憲法なるものが日本にはじめてできたのも明治です。西周は、そういった近代の日本の立ち上げの時期に苦闘した人です。
 そういう明治にできた事柄や関わった人物を、ほんとうに一から見直さなければならない時期に最近来ているのではないかなと僕は思っています。それは大学についてもそうですし、憲法も話題になっていますよね。それらを見直そうとするとき、どこまでさかのぼるかということを考えれば、もちろん昭和にさかのぼるのも大事ですし、もしかしたらもっともっと手前にさかのぼるのも大事なのかもしれないのですが、幕末から明治というのはやはりもう一度、別の仕方でさかのぼったほうがいいのではないかと思っています。
 つまり、ある種のヒーローの活躍劇として幕末、明治って書かれがちですよね。坂本龍馬とか西郷隆盛とか。もちろんそれも重要なのですが、もう少し地味な人も含めて追ってみると、当時から現在までの連続性が見えてきます。そういう意味で、古典というのは現代を見る鏡としておもしろいのではないかと思っています。

(終わり/前編「人類で最強の西周をつくる」へ)

石井 雅巳 (イシイ マサミ) 
1990年生まれ。島根県津和野町役場町長付(地域おこし協力隊)を経て、慶應義塾大学大学院文学研究科後期博士課程在籍。専門は哲学(レヴィナス、西周)。NPO法人bootopia副代表理事。共訳書にグレアム・ハーマン『四方対象』(人文書院、2017年)。主要論文に「『全体性と無限』における享受論の実在論的読解――レヴィナスはいかなる意味で現象学的か」(『フッサール研究』第13号、2016年)、「翻訳と日本語―西周の言語哲学―」(『北東アジア研究』第29号、2018年)など。『西周と「哲学」の誕生』(堀之内出版、2019年)、『西周 現代語訳セレクション 』(慶応義塾大学出版会、共著)
はらだ有彩
関西出身。テキスト、テキスタイル、イラストレーションを手掛けるテキストレーター。ファッションブランド《mon.you.moyo》代表。2018年に刊行した『日本のヤバイ女の子』(柏書房)が話題に。2019年8月に続編にあたる『日本のヤバい女の子 静かなる抵抗』を刊行。「帰りに牛乳買ってきて」(リノスタ)、「女ともだち」(大和書房WEB)、「はらだ有彩の東京23話」(東京新聞ほっとweb)、「ダメじゃないんじゃないんじゃない」(カドブン)など連載中。
Twitter:@hurry1116 HP:https://arisaharada.com/